広大の論-東アジアの儺者たち(要旨) (歴史における周縁と共生-疫病・触汚思想・女人結界・除災儀礼)


                                    2008年10月25日 
                                   (2010年4月25日補訂)

  0. はじめに

 本日の発表の基本となる文章がウェブサイト「「賤民」の文化史序説ー朝鮮半島の被差別民(補遺)」にあります。参照してください。
 本日の論点は次のとおりです。第一に朝鮮半島でかつて賤民とよばれた人びとを歴史的に振り返ります。第二にそのことを東アジアの文化史、とくに祭祀演劇史のなかに位置付けます、第三に朝鮮の儺者たちの具体的な表演をみます。第四に今を生きるわたちしたちにとって東アジアの儺者とは何であるかを考えます。

 1. 朝鮮半島の賤民

  1. 通念
 朝鮮王朝後半の「七般公賤」。すなわち、妓生、内人(宮女)、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、官奴婢、有罪の逃亡者。
 あるいは「八般私賤」。すなわち、僧侶、伶人(楽工)、才人(河原者)、巫女、捨堂(社堂)、挙史(居士)、鞋匠、白丁(今西竜「朝鮮白丁考」参照)。
 そのほか、盲人の占い師、漁夫、海女、山尺(山で薬草などを採る者)、各種の匠人、私奴婢など。

 同化の施策
 才人、禾尺を白丁と命名し農民と婚姻させる(世宗五<一四二三>年八月乙酉)。
 雑処させる(世宗九<一四二七>年一一月辛亥)。
 戸籍に載せ、平民や公私賤人と結婚させる(世宗三〇<一四四八>年四月甲子)。

 予断、先入見の広がり
 才人、禾尺は「姦淫と盗みをし、殺人もする」(世宗四<一四二二>年一一月丁丑)。
 「才人、白丁」はもともと紘歌、宰殺に慣れていて今なお改めようとしない(睿宗一年(一四六九)六月辛巳)。

  2. 朝鮮朝初期までの白丁
 高麗時代の白丁は良民。
 朝鮮朝の白丁の前身は楊水尺、水尺、禾尺。その出自は胡種(『朝鮮王朝実録』成宗二二(一四九一)年四月戊辰)。「禾尺、才人は耕種に事えず民租を坐食し、恒産も無く恒心も無く山谷に相聚まって倭賊を詐称」「韃靼と禾尺は屠牛をもって耕食に代える」(『高麗史』)。
 朝鮮王朝初期の定住化政策。
 中期以降は彼らだけの村で屠牛、柳器作り、芸能者として生活。
 たとえば、京城の成均館の周辺にいて儒教の祭祀用に牛肉を準備した泮人(パニン)。交婚を忌まれる者であったが、一方で山台劇(サンデノリ、仮面戯)をおこない、京城だけでなく、近傍の楊州などにもでかけた(秋葉隆「山台戯」)。彼らは屠畜も芸能も担った。

  3. 朝鮮朝末期の白丁
 白丁には戸籍がなく族譜もない。名前に仁義などの語は用いることができない。日常生活では、周衣(外套)、被り物、喪服、女性の簪の着用ができない。婚礼時の乗り物、葬礼の喪輿も禁止され、良民へのことばづかいは子供に対してもへりくだる。
 1894年、甲午更張(甲午改革)「駅人、倡優、皮工、竝びに免賤を許す事」。しかし戸籍には「屠漢」の字が記され、差別はつづいた。

 2. 儺者たちの東アジア

  1. 中国宋代

 孟元老『東京夢華録』(1146年)巻10、12月の条、呉自牧(1270年頃)『夢梁録』巻6、12月条に打夜胡。貧者による門付け。駆儺のこと、また「除夜」条に朝鮮の農楽埋鬼に似た埋祟。
打夜胡は打夜呵ともよばれる。彼らの同類は路岐。いずれも放浪芸人*。

宋代の門付け。奇妙ないでたちの者たちで、広義の儺者である。

宋代の門付け。奇妙ないでたちの者たちで、広義の儺者である。

 この月に入って以来、貧乏人が、四、五人一組になって、女や化物に扮装し、銅鑼を鳴らし太鼓を叩いて、軒なみに門付けをする。俗にこれを「打夜胡」と呼ぶが、やはり駆祟の行事である(入谷義高・梅原郁訳註『東京夢華録』)。
  *これについては野村伸一「忘れられた芸能史、序説(第二稿)」(『朝鮮文化研究』第九号、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部朝鮮文化研究室、2002年参照。

 また、路岐については『武林旧事』巻六、瓦子勾欄に「或いは路岐の勾欄に入らず、ただ耍閙寛闊の処に在りて場を做す者有り。之を打夜呵と謂う。此れ又芸の次なる者[或有路岐、不入勾欄、只在耍<一本、「要」>閙寛闊之処、做場者。謂之打夜呵。此又芸之次者。野村補注]」(浜一衛『日本芸能の源流 散楽考』)。

 これによると、路岐はすなわち打夜呵である。彼らは劇場の芸人たちよりもさらに低位に置かれた。しかし、この末裔は中国の地方劇の担い手になっていった。彼らは寺院に拠り所を求めた。それは朝鮮半島の社堂(サダン)、男寺党(ナムサダン)たちのばあいと同じである。そして、その芸能者たちの姿は日本中世の演戯者たちのありかたと大いに通じる(これについては野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、105頁参照)。

 補注
 (1) 沖縄の首里郊外安仁屋(あんな)村には戦前まで、ニンブチャー(念仏者)、チョンダラー(京太郎)あるいはフィンガナーとよばれる人たちがいた。ニンブチャーは葬式によばれて、鉦をたたき念仏を唱えもした。一方では、チョンダラーと同じく、人形をまわした。つまりは芸能者でもあった。チョンダラーは正月に人形戯をしつつ門付けをした。彼らはいずれも卑賤視された。念仏の芸能は、日本本土はいうまでもなく、沖縄においても大きな意味を持つ。八重山のアンガマでは念仏歌が唱えられる。戦後、脚光を浴びるに到ったエイサーはもとは盆の行事で、詞章は念仏であった。これらの広がりに関しては、池宮正治『沖縄の遊行芸』、ひるぎ社、1990年に詳しい。
 (2)  波照間の盆行事ムシャーマのなかでもニンブチャーが踊られる。当地のニンブチャーは念仏踊りの意味である。これについては以下のサイトを参照のこと。
  「波照間島のムシャーマ-2005年、ホトケをかけての豊年祭」
  映像 (2分25秒)  ニンブチャー、狂言 参照)

  2. 同時代の朝鮮半島
忠烈王九(1283)年八月「元の倡優男女来る、王、米三石を賜う」とあり、その優人らは大殿において「百戯を呈した」(『高麗史』世家。

 3. 広大の登場-朝鮮半島の新しい儺者
  1. 史料。『高麗史』巻百二十四嬖幸二、全英甫列伝
 忠蕭王(1314-30)が元に留まっていたとき、瀋王暠(異腹の兄)が王位を奪おうと謀をして奸臣と交構わった。このとき国王は臣下を宰相〔元の宰相か〕のところに遣っていわせた。昔、小広大がいて大広大らに随って水を渡るとき、船がなかった。それで小広大は、この大広大らに「我は短小なので河の深浅を知ることは難しいが、君輩は身が長いから、まず水深を測るのが宜しい」といった。大広大らは咸「然」といい水に入ったところ、皆、溺れ、独り小広大だけが免れた。
 ここで忠蕭王は次のようにいった。今、二人の小広大が吾が国にいる。全英甫と朴虚中がそれだ。吾を禍網に置き、晏然と座視するのは小広大そのものだと。
 この挿話を記したあとで、『高麗史』は「国語仮面為戯者謂之広大(国語では仮面にて戯を為る者を広大と謂う)」と注記した。

  2. 高麗王室と元との密接な関係
 忠蕭王の祖父忠烈王は元の正祖の公主を后とする。母(父忠宣王の妃、懿妃)も蒙古人。忠蕭王の妻もまた蒙古人。高麗王家は実質的に元帝あるいはその公主(王女)らの意向をそのまま受入れた。政治はいうまでもなく、殊に宗教、文化的な装置は元からはいってきたとみられる。

  3. 元の王室における正月の仮面戯
 『元史』礼楽史五によると、元の王室では正月早々、仮面戯をした。そこでは、密教の孔雀明王(孔雀金剛)舞があり、また道化者の演戯もみられる。また「覇王冠」という冠を着けた青仮面の者も現れる*。

 …次三隊、男子三人、戴紅髪青面具、雑綵衣…次六隊、男子五人、為飛天夜叉之像、舞踏以進。…

 康保成によると、第三隊はチャムに登場する「阿雑熱」すなわち遊び歩く僧(遊方僧)である。この者たちは仏法の浄場に相当する役割をはたしているという。この人物はラダックのチャムにおけるアビ、メメにも通じる(後掲図版)。朝鮮の仮面戯にみられる墨僧の類いもまた同じ性格の者であろう。第六隊は護法神が跳び回っているさまである。朝鮮の八墨僧たちが跳び回るさまに通じる。この正月の演戯の群れは第十隊まである。
  *康保成は「覇王冠」は未詳と述べる(康保成『中国古代戯劇形態与仏教』、東方出版中心、2004年、363頁)。ただし、朝鮮の仮面戯には完甫という名の者が現れる。墨僧たちの頭目で冠を着けているのが特徴である。そうして元の王室の演戯にも完甫のごとき人物がいた。この共通性は興味深い。

しかも、これらは単なる儀礼の段階ではなく、「雑劇」として演じられていた*。
  *前引、康保成『中国古代戯劇形態与仏教』第七章の「金剛舞与羌姆在漢地的流伝」の項、とくに362-364頁参照。

 『元史』の記述内容は多彩で興味深い。その演戯はいうまでもなくチベットの寺院における仮面舞踏チャムに通じる。一方また朝鮮の仮面戯に登場する八墨僧たちは面相からしてチャムの世界に通じる点がある。
 元と高麗の仮面戯のあいだにはつながるものがある。

康翎タルチュムの墨僧。撮影金秀男。

康翎タルチュムの墨僧。撮影金秀男。

松坡山台戯のオム僧(右)と上佐。

松坡山台戯のオム僧(右)と上佐。

ひとりの墨僧が棍棒を振るって他の墨僧を追い立てる。撮影金秀男。

ひとりの墨僧が棍棒を振るって他の墨僧を追い立てる。撮影金秀男。

康翎タルチュムのマルトゥギは墨僧と同類のモノである。その跳舞は激しく力強い。撮影金秀男。

康翎タルチュムのマルトゥギは墨僧と同類のモノである。その跳舞は激しく力強い。撮影金秀男。

インドラダックのラマユルでみられるチャム。アビ(婆さん、左)とその家族(右側)。道化風の者たち。

インドラダックのラマユルでみられるチャム。アビ(婆さん、左)とその家族(右側)。道化風の者たち。

ラマユル寺のチャム。ここでは僧が大きなダオ(仏法の敵、災厄の象徴)を退治する。

ラマユル寺のチャム。ここでは僧が大きなダオ(仏法の敵、災厄の象徴)を退治する。

ダオを処理するアビ、メメ(爺さん、右)。彼らは災厄を処理する来訪者、すなわち儺者でもある。

ダオを処理するアビ、メメ(爺さん、右)。彼らは災厄を処理する来訪者、すなわち儺者でもある。

 

4. 儺としてみた仮面戯と傀儡戯
  1. 河回仮面戯の世界の特徴 
  (前掲 http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/kwangde/kwangde.html 参照)

 慶尚北道安東郡河回洞の仮面戯は高麗中期(李杜鉉)、あるいは後期か末期(一三-一四世紀、徐淵昊)に形成されたとされる。仮面の造形、河回の同族部落の変遷伝承と仮面制作にまつわる伝承などがその根拠である。
 さらに次の特徴はやはり、宋元のころの中国の宗教文化と通じるものがある。

 1) この仮面戯の宗教的基盤に女神の慰霊 ⇔ 中国江南に出現した女性死霊への畏怖と南戯
 2) 世俗的な人物群(図版参照) ⇔ 中国の水陸斎、黄籙醮、九幽醮などの基盤;孤魂野鬼への畏怖。その演戯としての儺戯。

  2. 傀儡戯トルミ

1洪同知

1洪同知

2イシミに食いつかれた朴僉知を救う洪同知。救済者あるいは儺者。

2イシミに食いつかれた朴僉知を救う洪同知。救済者あるいは儺者。

3語り手朴僉知。中国の」引戯」、インドの「引線匠」の類い。由緒深い人物。

3語り手朴僉知。中国の」引戯」、インドの「引線匠」の類い。由緒深い人物。

4寺を建てて死者の霊を弔う。徐淵昊『コクトゥ閣氏あそび』より。

4寺を建てて死者の霊を弔う。徐淵昊『コクトゥ閣氏あそび』より。

5 植民地時代、宋錫夏の撮した造寺の段。鳳山の人形戯。『民俗写真特別展図録(石南民俗遺稿)』より。

5 植民地時代、宋錫夏の撮した造寺の段。鳳山の人形戯。『民俗写真特別展図録(石南民俗遺稿)』より。

 

 

 

 1) 死とかかわる傀儡戯。
 傀儡戯トルミ(コクトゥ閣氏あそび)では、演戯の後半に平安監司が死ぬ。その葬列を丸裸の洪同知(ホン・ドンジ)が男根を押し立てて引導する。
 2) 洪同知は原初の童子、あるいは男根そのもの。そして儺神を兼ねる。洪同知の赤色の裸体には神通力がある。そして、その役割は喪輿の前駆をする方相氏の人形*と同じ。
  *方相氏には葬列の先駆けとしての役割があり、朝鮮半島では1980年代までその民俗がみられた。

 3) 前半の演戯で洪同知は水辺の妖怪イシミを制圧して人びとを救済する。ここにも儺神としての役割がみられる。

  5. 小考-わたしたちにとって前近代の儺者とは何か 

  1.危機に陥った共同体が必要とした者-境外との往来者
 およそ各種の共同体は内と外を区別する。そうしつつ、一定の秩序を形成する。秩序ができあがると、次には、保身のために異物をはき出そうとする。しかし、また内側で築かれた自分たちだけの泰平、安穏はそうそういつまでもつづかない。それが世の常である。そのとき、否応なく外からの来訪者を期待する。
 このとき、共同体はどのような反応をみせるのか。それは歓迎と拒絶である。外来者を期待して門を開けることもある。しかし、また自分たちが滅びようとも、内に閉じこもり、異物を拒絶するばあいもある。このようなことは現代社会の各種共同体において、なおいくらでもみられる。
 さて、前近代の村落において、共同体のそのような機制を代弁した者がいた。それが儺者である。次のことばはこれを如実にものがたる。

 ミヤル婆さん  ねえあんた、あたしたちがこんなふうにしょっちゅう喧嘩ばかししてるってんで、村の人たちがあたしたちを追い出すってよ。

 亭主  おう、いいとも、出てけってんなら、出てくさ。…だけどな、いいか、お前とおれがこのムラをあとにしたら、村の者にろくなことが起こらねえぞ。お前があっちの入口に立ち、おれがこっちの口に立っていればこそ、村に雑鬼[チャプキイ、疫病神]がやってこないんじゃないか。    (『鳳山タルチュム』第七科場ミヤル舞)

ミヤル婆さん。撮影金秀男

ミヤル婆さん。撮影金秀男

 

  2.滑稽戯と跳舞により秩序回復を試みる者-哄笑、嘲笑、諷刺の担い手
 季節の移り変わりを身体で感じ、跳舞する。そうして、自然の理に従って口ををきく。そこでは、「持てる者」たち同士の礼儀に対する異議申し立てが込められている。

 墨僧  シィーッ。アー、シィーッ。アー、シィーッ。山中には暦がなく、季節の移り変わりも知らずにいたが、花咲けば春、葉茂れば夏だ。桐の葉落ちれば秋で、あの向こうの蒼い松、緑の竹に白雪がひらひらと舞うから、これこそが冬だ。おれも元はといえば山川にあそぶ遊冶郎、山のなかに埋もれていたが、楽の音がきこえるから、ひとつあそんでいこうと…   (『鳳山タルチュム』第七科場ミヤル舞)

 これは頭ごなしに強いられる、退屈な礼の教えに飽き飽きした者の声のようでもある。この一方で、少しも理や義のない虚勢の礼儀に対しては鋭利な抵抗のことばを投げつける。それはすでに周知のところである。

第一の墨僧。『海西仮面劇の研究』より。

第一の墨僧。『海西仮面劇の研究』より。

 

  3.東アジアの儺者たちのその後-韓国の白丁をめぐる言説。中国浙江省の堕民のばあいと日本の言論
 2002年2月6日、韓国のSBS放送は旧正月の特別番組にドラマ「白丁の娘」を放送した。
 2003年9月から2004年3月まで放送された『大長今』は賤民の文化史と関係がある。ドラマでは、チャングムの父母が身を隠したところが白丁の村であった。また最終回近く、訳あって、王宮を離れたチャングムとミン・ジョンホの二人が逃げ延びたところも白丁村であった。しかし、白丁の語は日本語の字幕では記されない。
 日本ではチャングムのドラマは人気を博した。そのことは好ましい。しかし、日本人の気に入るような字幕でしか伝えられていない。このことはあまり知られていない。それはほんの一例である。しかし、日本における異文化理解の典型でもある。同時に日本的翻訳文化の限界でもあろう。

 堕民について  中国浙江省東部には近代に至るまで「堕民」とよばれた者たちがいた。彼らは技芸その他を売り物にして生きた。かつて魯迅がこれについて文章を書いた。木山英雄は社会史の視点からこの問題にいち早く注目した。木山の引用した『浙江新志』によると、堕民はしばしば寺院に住みついていたという*。そして、この堕民の居住地紹興から紹劇が起こっている。紹劇の中心にいたのは堕民である。彼らの起源は古代越族に遡るかとみられている(俞婉君『紹興堕民』、人民出版社、2008年、116頁以下)。
 *
木山英雄「浙東“堕民”雑考」『言語文化』16、一橋大学語学研究室、1979年、6頁。なお同論文はウェブ上で公開されている。http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/9036/1/gengo0001600030.pdf

 4. 可能性としての中国地方劇-媽祖神の誕生をめぐる祭祀演劇の活況

旧正月の廟と舞台。福建省汕尾市。儀式劇「仙姫(天仙)送子」。

旧正月の廟と舞台。福建省汕尾市。儀式劇「仙姫(天仙)送子」。

演劇奉納者の家族への祝福。子授け、子息の立身出世。

演劇奉納者の家族への祝福。子授け、子息の立身出世。

『秦香蓮』下集。主人公は見捨てられた妻。この構図は初期南戯以来のもの。ただし立派な息子を授かる。

『秦香蓮』下集。主人公は見捨てられた妻。この構図は初期南戯以来のもの。ただし立派な息子を授かる。

南戯を奉納するのは住民の誠意から。

南戯を奉納するのは住民の誠意から。

莆田市内文峰天后宮の仮設舞台。市内中心部にあり、夜は400人余りの観客が集まった。2008年旧暦3月24日

莆田市内文峰天后宮の仮設舞台。市内中心部にあり、夜は400人余りの観客が集まった。2008年旧暦3月24日

 

 中国南部、福建省の莆田、広東省東部の福佬系の人びとの地区では今日、祭祀演劇がたいへん盛んである。これをどうみるか。結論は8)に記した。1)から7)までは、いわば、その道程である。
 1)この祭祀演劇は南戯とよばれる。いわゆる江南の地方演劇である。
 2)その活況は清末にとくに顕著になった。これは日本や朝鮮半島南部の基層文化にはみられなかった。それゆえ、一見すると、全く別の世界が展開しているかのようにみえる。
 3)しかし、これは千年の歴史を持った祭祀演劇である。初期代表作『趙貞女蔡二郎』『王魁』の女主人公は心変わりした男のためにあえなく死んだ。それらの作品の根柢にあるものは孤魂冤霊を鎮魂する祭祀である。
 4)そして、この点では朝鮮、日本ともかかわりがある。
 5)鎮魂の祭祀は仏教において体系化され、道教、巫俗にも波及した。これらのなかで最も重要なのは死者の霊の語りを身近に取り込むことであった。
 6)仏教と道教は戯台(舞台)を用意した。そして儺者のなかの歌舞に長じた者たちに演戯の場を提供した。彼らが死者のことばを修辞豊かに語った。南戯はこの場を得て大きく飛躍した。
 7)近代化のなかで多くの戯台は寂れていった。しかし、媽祖の故郷莆田の人びと、あるいは彼らと似た祭祀観を持つ福佬系の人びとはこの祭祀演劇を維持した。
  (8)そこでは神事という枠組のなかで観客の五臓六腑が発動する。この光景は都市の劇場における観劇のさまとは根柢から異なる。それは、みずからの歴史と風土に根付いた正真の文化というべきである。かつて儺者により育まれた敬神の最高の表現、それが今、ひとつの可能性をみせている。