巾幗英雄―戦う女性(2008年の映像・撮要)


巾幗英雄から『剣女』、団七物へ

 今日の南戯をみていると、勇敢な女性が数多く登場する。武器を取って戦う女性、これを中国では巾幗英雄(ジングオ インション)という。巾幗(きんかく)は女性の頭巾のことで、また女性を意味する。その女性たちは槍や刀を持って大の男をなぎ倒す。あるいは夫と定めた男が危機に陥ると、これを救出する。
 明末以降に顕著  中国の演劇史においては明末以降、この種の女杰が輩出することが知られている。一方、朝鮮半島でも18世紀以降、女性(妓生)の剣舞が流行り、また『剣女』などという漢文小説が書かれている。また日本でも「白石噺」ではむすめ二人が父の敵団七を討って敵討をはたす。これは浄瑠璃にもなりさらに地方の民俗芸能(団七物)として流行した。これらは明らかに東アジアに共通の情調があったことを意味するだろう。
 この時代、男たちの硬直した倫理観は上からの規範として強制された。それは女性たちをして家のなかに(また家門のために)生きることを強いるものであった。
 一方で、芝居のなかではあれ、家の外に出て活躍する女性の姿がさかんに演じられる。そこでもちろん「列女(烈女)」がかかげられる。だが、そのもとで、夫や家門に従う姿だけがえがかれたわけではないことに注目する必要がある。男を打ち伏せる。そして男を選んで結婚する。意気地のない男を叱咤し、武芸を誇示する。さらには男に向かって天下の安寧のために力をつくすことをいいきかせる。また小説『剣女』では、剣舞の達人となっただけでなく、器量の小さな男を棄てて颯爽と行方をくらます。
 含意  これらの女性像は、現実の生活が女性の力なしでは立ちいかなくなっていた状況をものがたるものだろう。ただし、近現代の現実をみればわかるように、既成の制度そのものはそうたやすくは改まらない。このことから、芝居の世界は所詮は絵空事とみるか否かは判断の分かれるところだろう。いずれにしても、近世後期以降の女英雄のいる芸能状況は多くのことをかたっている。

 
  映像1  正字戯『紀銮英生子』 (3分6秒)

 紀銮英は唐の将軍薛丁山の子薛剛の妻である。この女性は女杰(女傑)として演劇ではよく知られている。すでに子供(薛狡)を一人設けているが、紀銮英は子を背負いつつも、夫薛剛とともに唐に反抗する。ところが、そのとき、紀銮英はもうひとり子を産むことになる。これが薛葵である。紀銮英は二人の子を外公(母方の祖父)に委ねて戦いに打って出る。そんな場面がひとしきり演じられる。
  「東シナ海文化の現場-2008年汕尾、海陸豊劇による旧正月」(1月4日の項)参照

  映像2 正字戯『五虎平西』(3分58秒)

狄青により殺された西遼王の婿黒利駙馬(図版38)とその妻飛龍公主(前日の八宝と同じ役者)が主役である。
飛龍公主は宋朝の家臣龎洪に渡りをつける。そして、そのむすめを仮称し狄青の妻になることに成功する。初夜の晩がきた。かねて用意した通り、飛龍公主は短刀を取り出し、狄青の寝込みを襲う。しかし、偶然のことから殺害はうまくいかず、逆に、みずらの喉を掻き切ってあえなく死んでしまう。
 「東シナ海文化の現場-2008年汕尾、海陸豊劇による旧正月」(1月6日、7日の項)参照

  映像3 四平戯『楊六郎斬子』(3分55秒)

 宋将楊宗保は敵の女杰穆桂英により敗戦を強いられ、穆桂英との結婚を余儀なくさせられる。このため楊宗保は父親から厳しく叱責され、斬罪に処されることになる。しかし、処刑寸前に妻の穆桂英により救済される。二人は改めて力を合わせて蕃異を討つ。
  野村伸一編著『東アジアの祭祀伝承と女性救済』、風響社、2007年
  野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、288頁参照。

 
 附記 小考―剣舞の伝承と担い手について

 朝鮮の剣舞  朝鮮半島では古くから仮面戯のひとつとして剣舞があった。18世紀の『文献備考』によると、新羅の黄昌郎は8歳の時、新羅王のために、剣舞を口実にして敵国の百済王に近づき、これを刺殺したが、その結果、百済人に殺された。そこで新羅の人びとがこれを悼んで「その容を像り仮面に為り舞剣の様を作した」という*。
 *李杜鉉『改訂版韓国演劇史』、学研社、1985年、28頁。
 『東京雑記』によると、これは新羅の品日将軍の子の官昌郎の話である。そして、母は失意の余り失明したが、庭で剣舞が催され、「官昌が来て舞っている」という話を聞くと、母はうれし泣きし、目も開いたという(李杜鉉、同書)。
 李杜鉉は、高句麗の安岳古墳壁画に剣舞がすでに描かれているといい、剣舞は古く中国に由来すると述べた(李杜鉉『朝鮮芸能史』、32頁)。
 中国の剣舞  確かに元代の『文献通考』散楽百戯によると、唐代末には排闥戯といって、項荘と項伯との舞剣を含む科白入りの演劇がおこなわれていた。この時代には「すでに舞剣という見せものが生まれていた」という(浜一衛『日本芸能の源流 散楽考』、17頁)。
 以上のことから、中国、朝鮮では古くから剣舞があった。それは男によるものである。ただし、これが武将を追悼するものなのか、あるいは慰霊のためのものなのかは不分明である。しかし、日本の鬼剣舞の伝承などを踏まえるとおそらく後者であろう。
 日本の剣舞  日本の東北地方の鬼剣舞は鬼面を着けて剣舞をする。岩手県北上市立鬼の館に伝わる鬼剣舞の由来のうちには、死者の追悼とかかわる伝承がある。すなわち、大同3年(808)年、「山形県の羽黒山中で、権大僧都法印が荒沢の鬼渡大明神善行院の御堂にこもって勤行[念仏で死者の冥福を祈ること]をしていたところ、ある夜何処ともなく一人の老僧が現れて悪魔退散菩堤のために念仏剣舞を教えた」とある*
 朝鮮半島と日本の剣舞の背景には追悼の思想がある。中国では道教の儀礼のなかて道士が剣をたくみに振る。こうした剣舞の長い歴史のなかから、女性の剣舞が現れた。ただし、これは突然現れたものともいえない。巫女の祭儀のなかでも刀や槍を携えて舞う。これは古くからあったとみられる。

 *サイト  岩手県 北上市 民俗芸能 鬼柳鬼剣舞 オフィシャルサイト http://onikenbai.fc2web.com/01.html 参照。