西表島のシチィ-1994年、祖納、干立の図録と小考(野村伸一)


 1.  はじめに

 シチィ(節祭)は八重山一帯でおこなわれる。西表のばあいは、シチィの日につづいて、翌日のユークイ(世乞)、三日目のトドミユイ(止留祝)と三日間なされる。これを総称してシチィ祭とよぶ(星勲『西表島の民俗』、汲古堂書店、1981年)。

 シチィは村の最大の行事  シチィは祖納の村人にとってもっとも大きな神行事である。このまつりは、村人の生き甲斐でもある。それゆえ「親兄弟の葬儀ですら祭りの後に行うというほどかけがえのない行事」「不自由でたえず不足がちな百姓にとって待ちに待った日」だという(星勲『西表島の民俗』)。
 これは一年の区切りと新年の豊饒祈願が連続しておこなわれる祭祀である。

 2. 日誌

 1994年11月9日(旧暦10月7日 己亥) シチィ

 西表のシチィ-は元来、旧暦7、8月の己亥(つちのとい)の日の行事である。ただ、近年は旧暦8、9月の己亥におこなう。この日から3日間、年の切り替え時の祭祀がある。
 この日、前泊浜では翌日の船漕ぎのために船が二艘並べられる。船には供物を献じ、拝礼がなされる(図版1)。
 シチィ-の日はトゥシヌユー  シチィ-の日はトゥシヌユー(大晦日)ともされる。この日は早朝、他人より先に大平井戸(ウーヒラカー)から産水(すてみず)を汲み、生け花をし、茶を供える。またその水は夕方、子供らが顔や手足を洗うのに用いた。さらに翌日の早朝にも娘たちの水汲みがある。これを用いた茶湯を祖先にあげると、良縁が得られ、赤子に恵まれるという(星勲『西表島の民俗』参照)*。

 * 年初の井戸水は東シナ海地域の各所において重要である。浙江省島嶼部では、正月2日の井戸水汲みは「搶財」または「搶吉利」という[搶は我先に入手するの意味]。つまり財福、運をもたらす。この水は東海龍王の配下の井戸の神が管理する(姜彬主編、金涛副主編『東海島嶼 文化与民俗』、上海文芸出版社、2005年、340頁)。また朝鮮半島西海辺では正月の辰の日の子正、または15日早朝に、井戸水を争って汲む。撈龍卵という。この水で飯を炊くと、農運がよくなる(大林太良『正月の来た道』、小学館、1992年、64-65頁)。**

 **水の力  年末年始の水は生命を活性化させる。宮古島ではシツ(節祭)のときに月の神が若水(バカミズ)を授けた。月からの使者がへまをしたため、永遠の生命は蛇に奪われたものの「第一日の祭日の黎明に、井戸より水を汲み、若水と呼び、全家族が水浴する習慣が存してゐる」(N・ネフスキー、岡正雄編『月と不死』東洋文庫、平凡社、1971年、13頁)。若水の由来は月と関係づけられることが多いが、それだけではない。おそらく水があらゆる生命を活性化させる、蘇生させるということがはじめにあり、それを月や蛇、龍と結び付けて説いたのであろう。この水は女性が管理するのが一般的である。折口信夫は日本古代の水の民俗を取り上げつつ、そこに女神とそれにつかえる神女の存在を指摘した(青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)折口信夫「水の女」)。これは女人観音が楊枝を用いて水を降り注ぐことや朝鮮巫俗のシッキムクッで巫女が霊魂を洗う姿と共通する。年初、一家のために主婦が清浄な井戸水で飯を炊くという民俗は同じ系譜の上にあるものだろう。(2012.6.26 補注)  

 祭場の浄めと祖霊への合掌  神がみが来臨するにあたって、家の隅々を浄める。浄めのためには珊瑚のかけらとシチマキカズラを用意する(図版2)。家の柱や水道の蛇口などにシチマキカズラを巻く(図版3)。また珊瑚のかけらを盆に盛る。そして、玄関をはじめとして家の各所を巡りつつ、これを蒔く(図版4)。そして、家族は「霊前に香華を拝して合掌」した。これは江南の年末の祖先祭祀と同じもので、注目される。

 夜は翌日の行列の予行演習をおこなう(図版5)。これをウプシクゥミ(大・仕込み)という。

 魔のはびこる夜  この夜は若い衆が素足に黒服を着て何もいわずに村内を巡回する。それはこのときは「魔介のなすがまま」で、「変声、音、光幻」が行き交うからである。若い衆はそれらに気付くと、うつぶせになり「魔界の秘密を探る」という。あるいは、この夜、「年間の不幸不吉死の前兆」をみることになる(星勲『西表島の民俗』、112頁)。こうしたことは、無祀孤魂の到来を意味する。それは朝鮮半島の漁村で、水中孤魂への献食をすることと共通する(野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、76頁、図版48参照)。

 1994年11月10日 ユークイ
 祖納

 己亥の翌日、庚子(かのえね)が世乞(ユークイ)の日。
 早朝、むすめたちの水汲みがあった。

 公民館に置かれたミリク(弥勒)と獅子の面(図版6)(図版7)。
 サチをもたらすミリク  ミリクの面を着ける。これをミリク起こしという(図版8)。このあと、ミリクになった者は食事も用足しもできないという(比嘉康雄『世を漕ぎ寄せる〔シチ・西表島〕』、ニライ社、1991年)。

 祭場は前泊浜  午前中、前泊浜に向かう一番旗(図版9)。
 浜に向けてのミリクの行列(図版10)。ミリク、袖持ち、五穀持ち、ミリクのトゥム(供)などが付き従う(図版11)。
 アンガー(アンガマ踊りを担う女性たち)の行列(図版12)。先頭、黒い布で身を包んだ二人はフダチミという。
 狂言(図版13)。パチカイ(早使い)という口上を述べる。
 二人棒(図版14)(図版15)。

 フニクイ  フニクイ(船漕ぎ)の開始。漕ぎ手である舟子を紅白二組に分ける(図版16)(図版17)。アンガーたちは浜でユーを招く(図版18)。はじめに所定のコースを回る「神櫂」がある。神歌を歌いつつ静かに漕ぐ。次に競漕になる。
 いち早く到着した船(図版19)。報告のために飛び降りてきた船頭(図版20)。棧敷のチカ(司)のところに走っていく。
 別の舟子が櫂ににまたがりパチカイを告げる(図版21)。
 前泊ウガンでチカからさかずきを受ける船頭(図版22)。
 ミリク舞  棧敷ではミリクが舞いつつユーの到来を祝う。このとき、トゥム、アンガーらによりミリク節が歌われる(図版23)。めでたさの高潮。

  大黒(ダイクク)ぬ弥勒(ミリク)ばが島にいもち
   今年から我が島(バガシマ)弥勒(ミリク)世果報世(ユガフユー)
    サンサンユゥーヤアースリサァーァサ
  弥勒世や給(タボ)うてぃ遊(アス)ばばん遊び
   踊(ウド)らばん踊(ブド)り御免(ウユル)しでむぬ
    サンサンユゥーヤアースリサァーアサ
  弥勒世ぬしるし十日越(グ)しぬ夜雨(ユアミ)
   かきふさいみそり我が島主(アル)じ
    サンサンユゥーヤアースリサァーアサ
  臼数(ウシカジ)ぬ黄金(クカニ)弥勒世ぬしるし
   ふたかちや布(ヌヌ)や急(イス)ぎみやらび
    サンサンユゥーヤアースリサァーアサ   (星勲『西表島の民俗』、119-120頁)

 アンガマ踊り  ひきつづき、浜ではアンガーらの踊り(アンガマ)が披露される(図版24)(図版25)。これは「この行事の中で最も重きのある芸能の一つ」、「純粋な奉納芸能」である(星勲『西表島の民俗』、120、127頁)。中心の二人はフダチミ。黒い打掛衣(うちかせ)を目深にかぶる。
 アンガマ踊りのあと、獅子舞がおこなわれる。ただし、この日は祖納の獅子舞をみずに、隣の干立集落にいき、そこの行事を参観した。なお、この獅子舞は翌日ツヅミの儀の最後にも舞われた。

 祖納のユークイ
 映像(2分40秒)  フニクイ、ミリク舞、アンガーの舞

 干立(現在の表記は星立)

 祭場は干立ウガンの庭  干立では、昼少し前から舟子、アンガー、ミリクの供らによるヤフヌティ(手)が踊られる。そして昼ごろ、船漕ぎがある。これが済むと、干立ウガンの庭で芸能が演じられる。
 この日(1994年11月10日)、現地に到着したときは午後2時過ぎ。狂言、アンガーの踊り、二度目の狂言(牛の狂言)が済んで、棒の演戯にかかっていた(図版26)。
 寄りくる道化オホホ  棒のあとはミリクの行列(図版27)、そして道化のオホホの演戯がある(図版28)。オホホはことばの通じないウランダピトゥ(オランダ人)ともいわれている。ミリクの一行にオホホといって声を掛けるが、無視される。カネ持ちという設定で、ミリクの供を買おうとして紙幣をばらまく(図版29)(比嘉康雄『世を漕ぎ寄せる〔シチ・西表島〕』)。オホホは干立のシチィを特色づける道化である。年末年初の祭場にはこうしたモノがやってくる。
 獅子のあそび  このあと獅子が登場する。干立の獅子は雄の一頭だけである。獅子は酒をあてがわれる(図版30)。また女性の囃し手が出て愉快に踊りながら獅子を舞わせる(図版31)。
獅子舞のあと、チカたちがウガンに向かって拝礼し、ウガンの庭での行事の終了を告げる(図版32)。
 しかし、まつりはまだつづく。まずチカや芸能の演じ手たちはウガンの前で拝礼をする(図版33)。そうして、集落内のトリムトゥ(元屋)に向かう。

 干立のユークイ
 映像 (2分45秒)  オホホ、獅子舞、チカたちの拝礼、集落内のトリムトゥでのあそび(アンガマ踊り)

 ムトゥの家の庭でのあそび  一行はムトゥの家の入口までくると、立ち止まり祝福をする。仕種をみるとユーを招いている(図版34)。そのあと庭にはいり、芸能を披露する。これは干立ウガンでおこなわれたものと基本的には同じである。
 ダードゥリッターという踊り  まずアンガーらの踊りがある(図版35)(図版36)(図版37)。次にダードゥリッターという踊りが演じられる(図版38)(図版39)。人差し指を突き立て、顔をすぼめ、腰を滑稽に振りながらの踊りである。周囲からは笑いが起こる。現地での話しによると、これにはいわれがある。すなわち、貧しい家の女がアンガーの踊りに参加できなかったが、駆けつけてきて、ぜひひとつ踊らせてほしいといい、踊っているのだと。これは興味深い。このことの意味は「3. 小考」で述べる。
 この踊りのあとはハヤチカイ(早使い)の口上がある(図版40)。
 このあとチカたちが座敷に上がり、ムトゥ家の祖先に拝礼する(図版41)。
 次に牛追い狂言(図版42)。これは男ひとりによる口上である。

 ムトゥ家での祝福が済むと、一行は公民館の庭に移動する。まず干立と記された一番旗と東と記された二番旗を立てる(図版43)。そして、この場所でまた芸能を演じる。アンガーの踊り(図版44)、ハヤチカイ(図版45)、また獅子舞もある。獅子はチカたちを祝福し、その返礼に缶ビールをもらったりする(図版46)。
 干立のユークイの一日はこうして暮れる。それは何よりも、活気があり、そのことで観る者を和ませた。

 1994年11月11日  トドミユイ(止留祝)あるいはツヅミ(締めくくり)
 祖納

 三日目は井戸の祭祀  シチィの三日目は井戸に対する感謝、浄めをおこなう。これは祖納、干立、それぞれの集落でやる。この日は祖納のものを見学した。
 午後1時過ぎ、旗を先頭にして人びとが集まってくる。 午後1時過ぎ、旗を先頭にして人びとが集まってくる(図版47)。祖納の井戸はウヒラカー(大平井戸)とよばれる。まず塩、酒、米、食べ物を用意して井戸の神に拝礼をする(図版48)。(図版49)。そのあと井戸の周りを巡り、水の神に感謝する(図版50)。

  伝承  ウヒラカーは伝承によると、村ではじめに掘られた、よい井戸である。その昔、西表に漂着した人がいた。この人が恩に報いるために井戸を掘ることを申し出た。水不足の祖納では感謝し、完成の際に慶来慶田城(けらいけたぐすく)の屋敷内で祝典をした。そのとき、当家の姫がこれに加わり、漂流者と恋仲になった。そしてともに島を出た。二人は年をへて帰国した。二人は歓迎されて送り出された。その年、すべての作物が万作となった。そこで、人びとは姫を中心とする行事を組んだ。これがシチィ祭であり、そこに井戸の祭祀が加わった(星勲『西表島の民俗』、汲古堂書店、1981年、128頁参照)。

 最後は獅子舞  また傍らの空き地では狂言や棒などの芸能が演じられる。最後には二頭の獅子による舞がある(図版51)。さら獅子は井戸のほとりにきて祓いをする(図版52)。つまり本来の機能を発揮する。
 このあと一行は集落内に戻り、ムトゥ家ほかの主だった家を巡って祓いをする。とはいえ、その雰囲気は和やかなもので、踊りあそぶことがすなわち祓いとなる(図版53)。迎える家では一行を接待する。
 これには村浄めの意味がある。元来なら、すべての家を祓って回るべきであろう。

 3. 小考―蜡祭の視点から

 1994年の西表のシチィは活気にあふれていて楽しいものであった。これについて簡単に振り返ってみたい。

 1. シチィ祭祀は村の最大の行事である。年末年始の行事となり肥大化している。年の切り替えは一日でよい。それが翌日の世乞い(きたる年の予祝)、さらにその翌日の井戸の行事(祓い)とつづく。これらは中国の蜡祭の祝祭性と同じものといえる。
 2. 新年の予祝と祓いの要素はシチィに伴っていた。これは東アジアの年末の農耕感謝祭(蜡祭)の特徴である。
 3. 干立のオホホの踊り、ダードゥリッター(剽軽な踊り)は極めて興味深い。それは、この地のシチィの祭祀が儺戯の一面を持つことを意味している。こうした踊りは単なる余興にみられやすい。しかし、それだけかどうかはよく考える必要がある。そもそもアンガーたちの踊りそのもが一年の切り替え時の踊りである。それは祭祀の性格が強い。祖納のフダチミ(高貴な家の姫とその家の嫁)などはどうみても神霊の一部である。それゆえ、そこに参加したいといってやってくる「貧しい家の女」もまた実は神霊の世界の下級霊であった可能性が強い。そうした類いの者の到来を信じ、それに対処しようとした結果がまさに儺儀(儺戯)なのである。
 4. シチィ祭りの起源として現地で語られる慶来慶田城家の「姫の家出」の伝承は儺のあそびを示唆している。深窓の姫が異人に恋をして駆け落ちした。それは通常は他界に去ったこと、つまり死を意味する。しかし、当地の伝承はそれに留まらず、「彼らは年を経て帰郷した」という。そのとき、村人は海辺でにぎやかに二人を迎え、また「送り返した」。すると、村には豊作と泰平が訪れた。この伝承は儺戯の動因としては十分なものがある。生前、願いが満たされなかった死者霊が年末に戻ってきて歓待され、帰る。このかたちを取ることで儺は成立する。これを重視する見方は朝鮮半島の儺や巫俗儀礼にもあてはまる。さらにいうと、それは東シナ海周辺地域の巫と儺文化に共通した見方だといえるだろう。

                 (2009年6月2日、2010年10月12日、2012年6月26日 補遺)