台湾鹿港潤沢宮の暗訪―王爺巡行による平安への希求(附映像)



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  一  事例

 現場  2011年10月1日(旧暦9月5日)、台湾鹿港の潤沢宮(図版1)で暗訪(an fang)がおこなわれた。鹿港の暗訪は、地域共同体に災厄、不安が生じたとき、あるいは王爺が童乩に降下して巡境を命じたときに臨時におこなう。暗訪は王爺などの神の力を借りて、地域の秩序を回復させる祭儀である。暗訪は鹿港各所の王爺廟でしばしばなされる。一方、台北青山宮(霊安尊王)、新竹城隍廟などでも暗訪の儀礼があるが、これは定期におこなわれるという違いがある*1。

図版1
図版1
 鹿港の王爺二類  鹿港の王爺は大別して二類に分けられる。第一は大陸からの移民が将来したもので、この多くは角頭廟(後述、注3)である。第二は代天巡狩の王爺である。王爺は外界を巡り歩いていて鹿港に至ったとき、童乩に降下する。このときの王爺は鹿港の王爺廟の客神である*2。
 夜間の巡行  夜間、土地公、七爺(qi ye 謝将軍)、八爺(ba ye 范将軍)、神輿に乗った王爺(図版2)、捕り手たちが音楽とともに練り歩く。かつては、闇のなかを練り歩いたので畏怖すべき雰囲気に包まれたという。今日では、家の前にあらかじめ供物を供え、行列を迎え、拝礼する家もある。恭敬の念はあっても、畏怖という感じはない。しかし、夜更けに神がみの来訪を待ち受けるのであるから、そこには相応の信仰心が窺える。
 潤沢宮  潤沢宮(1730年創建)は町の中心部后宅巷(houzhai xiang)にある。この廟は后宅の角頭廟である[角頭jiaotouは祭祀圏の最小単位*3]。李殿王のほか什三王爺、什三王爺夫人、三千歳、六府王爺*4、土地公などをまつる。この地域は銭江(福建省晋江県)施姓の人が数多く住み、彼らが潤沢宮を支えている。この廟の王爺は福建省晋江県金井鎮の南沙崗(ナンシャガン)からきたという。王爺は、普段は王爺廟にいるが、暗訪の際は、まず天の玉皇のところにいき、命を受ける。そうして廟に戻り、さらにまた故郷に戻ってから当地にくるという。
図版2
図版2

 今回は二週間前に玉皇の命を受けたが、六府王爺の大陸(故地)訪問などがあって、暗訪の実施がやや遅れた。潤沢宮では昨年も暗訪をやった。今年はそれに較べると小規模なもので、郊外の三か村(査某旦、澎湖厝、脱褲庄)を巡るに留まった。規模が大きいばあいは、二晩かけて内巡(境内)、外巡をそれぞれやる。前者は角頭廟の管轄区域を巡るものであり、後者はその外延、広くは鹿港全域を巡るものである*5。

 〔映像〕

 1. 暗訪―草人、替身、巡行(映像その一参照)
 巡行以前  暗訪の前日、廟の管理委員たちが男女の草人(cao ren)を作る。これは翌日、地域の人びとの厄払い(替身)に用いられる。元来は、個々人が作って廟に持ってくるものであったが、近年は廟の方で作ったもので代表させる。暗訪の当日は、昼前に、王爺の兵隊らを召集する(調営)。つづいて、昼食のもてなしをする(犒賞)。
  巡行(夜巡)  10月1日の夕刻、巡行の担い手たちが廟にきて、身を浄める。そして玉皇大帝から巡狩の命令を授かったあと、午後7時半ごろ列をなして廟を出る(夜巡 ye xun)。一行は、自動車に分乗し、鹿和路に沿って東方3キロほどのところにある査某旦(チャモウダン)のあたりまでいく。そこで下車してから、村の道にはいり、巡行をはじめる(図版3)。途中、音楽と爆竹の音が鳴り響く。廟前の広場、特定の家*6の前でみせる八爺(ba ye 黒面)の機敏な動きは悪しきモノを捉えるかのようで強い印象を与える。今年(2011年)の暗訪は昨年とは異なり、規模が小さい。それでも2時間余り練り歩く。台湾南部の王爺の巡行は昼間、賑やかななかでおこなわれ、途中、飲み食いもあるが、暗訪では飲食のもてなしは一切ない。午後11時前に廟に帰還する。
図版3
図版3

 2. 暗訪―草人送り、焼却、排班・収兵(映像その二参照)

 草人送り、焼却  廟への帰還後、草人、供物などを持って早足で川べりまで歩く。川辺では童乩が七星剣を携え煞を圧服するなか、草人を焼却し、川(海)に流す(図版4)。一行はこの際、無言で、また戻る際にも人の名をよんだり、振り返ったりしてはならない。煞に犯されることを恐れ、すみやかに帰還する。

図版4

図版4

 排班・収兵  廟に戻ってからは、王爺の命を受けた班長が兵卒たちを呼び返す。よく通る声で、速やかに帰還せよとくり返し命じる。そうして廟の入口右側に設けた天台卓(上蒼=玉皇の座)が撤去され、六府王爺は廟内のもとの位置に安置される。

 

 二 鹿港の王爺について

  1. 鹿港の王爺の分類 

 鹿港には王爺がたいへん多い(街区の廟は約60余り*[4])。鹿港鎮の大小の廟の三分の二以上が王爺を主神もしくは陪神としてまつる。当然、王爺の祭儀は鹿港の人びとの宗教生活と密接な関係がある。鹿港の王爺は起源からみて三類に分類される。

  1) 先民が故郷から携えてきた王爺。例えば街尾「官林宮」の朱府王爺、東石「東興宮」の李府王爺。

 2)  鹿港を開いたときの王爺。例えば「奉天宮」の蘇府大二三王爺。

 3)  代天巡狩する王爺。この王爺は天空から各地を見回っている。そして時々、各地の廟に降りていく。これは童乩がその意向を受けて皆に告げ知らせる。このときの王爺は客神(客仏)である。そして、その原籍地が泉州の恵安、石獅、蚶江などのばあいもある。これは鹿港の王爺のひとつの特色である*[5]。ちなみに潤沢宮の什三王爺はこの第三類のものである。

 2. 鹿港の暗訪の図像

  民生路の古廟「永安宮」の梁には諸種の彩色画がみられる。そのひとつに王爺の暗訪をえがいたものがある。絵は近年のものだが、七爺、八爺のほか随行者のかつてのいでたちがよくうかがわれる(図版5)(図版6)(図版7)(図版8)。

 3. 草人

 草人は稲藁で作る。額の箇所に縦の線を付けて男女を区別する。男は三本、女は四本である。これには経衣、金紙、銀銀を添える。童乩はこの草人を持って各人の背、胸に照らし、最後に、祈願者をして草人に息を吐きかけるように指示する。これにより身心の悪気が草人に移る(替身の儀)。儀礼を済ませた草人は元来は廟入口右に設けた天台卓のもとに置いておく。今回は、男女、各三体の草人が地域住民を代表していたので、替身の儀をするたびに、同じ草人を使った。

 ヒトガタの民俗  草人を人間の代わりとみなし、これを祭祀に用いることは東方地中海地域の巫俗では広くみられる。台湾各地の廟の小法事で用いる紙製のヒトガタも本質的には同じものである。済州島では海難死した人の霊魂を探すとき、神房が背中にヒトガタを背負って、魂よばいをする(撫魂(ムホン)クッ)。朝鮮半島本土ではかつて正月14日夜、チェウンというヒトガタを作り、これに厄を負わせて道端に棄てた(図版9)。また朝鮮半島西南島嶼部でもヒトガタ(ホスアビ=かかし)を作り、これに災厄を負わせて海に流した(民間ではホスアビを龍王とよんで気楽に願い事をいいかけたりもするが、元来はそのもとに配属されたモノであろう)。 

図版9

図版9

4. 小考

 台湾南部の王船巡行を伴う王爺祭祀は今日、祝祭化し多数の観光客が押し寄せる。一方、鹿港の暗訪は地域のカミゴトそのもので、けっして人にみせるものではない。それが今も、必要に応じて不定期におこなわれているのは興味深い。それは王爺の意向を忖度する童乩がいて、その代言が地域住民によって真摯に受けいれられていることを意味する。以下、暗訪祭儀をみた上でのまとめである。
 第一に、王爺の巡行が民俗として生きていることがあげられる。規模の大小はあっても、夜間に神輿が巡ることをありがたく待ち受ける家庭があること、そのために主宰する廟の神人が日ごろ関係する村を巡ること、これは地域の繋がりを確認する意味で貴重である。
 第二に、この祭儀の歴史を遡ると、その貴重なことが改めて感じられる。暗訪(夜巡)の文化は福建の泉州地域(とくに晋江)からきた。鹿港の漢人人口の85%は泉州三邑(恵安、晋江、南安の三県)を故郷とする人たちである*[9]。暗訪だけでなく、鹿港の宗教文化の多くは泉州地区に由来するといえる。ところで、顏芳姿によると、泉州三邑ではおそらく宋代以降、暗訪の類いの巡行がおこなわれていたとみられる。すなわち、晋江衙口村の定光庵は観音をまつる庵で、宋代に創建された。ここには伽藍神がまつられていて、これが毎年正月、「放兵出仏」をして鬼祟(亡霊の祟り)を防いだ。また、地域に常ならぬ災厄が醸成されると、人びとは伽藍神に夜間の巡行をしてもらった。これを「咬火(ヤオフオ)」という。これは暗訪そのものである。さらに、7月の普度の際にも衙口村では各所の王爺により鬼祟の追却をした。このときには草人や紙銭も村外に送った*[10]。この祭儀が現行の暗訪にもみられる。
 第三に、暗訪は地域文化の移動と持続を考察する上で格好の手がかりとなる。暗訪だけでなく、普度も維持されている。かつて泉州では7月の普度は家庭で、また地域で大規模に催された。日をずらしながら各地区が順に競って普度をした*[11]。この文化は大陸では今日みられないが、鹿港では維持されている。そのほか、泉州三邑では途絶えた個々人の除災儀礼なども、鹿港では生活のなかに息づいている(玉渠宮では童乩がいて日常的に小法事をしている)。それらを地域文化の移動と持続という面から比較していくことは今後の課題でもある。
 とりあえず、鹿港の暗訪に関連しては以上の三点を指摘しておく。

 参考文献
 彰化県文化局弁理『民俗及有関文物普査工作案』専案計画、報告書、2006年
  陳仕賢編著『宗教鹿港』、鹿水文史工作室、2009年。
  陳一仁『鹿港 文史采風』、鹿江文化芸術基金会、2004年所収「鹿港王爺暗訪儀式初探」。
 顏芳姿「鹿港王爺信仰的発展型態」、新竹:清華大學歴史所碩士論文,1994年。
  陳垂成主編『泉州習俗』、福建人民出版社、2004年。

                                                             (2012.7.24 補訂)


*1  彰化県文化局弁理『民俗及有関文物普査工作案』専案計画、報告書、2006年、11頁。
*2  同上、11頁。
*3  鹿港街区には30余りの角頭がある。陳仕賢編著『宗教鹿港』、鹿水文史工作室、2009年、21頁。
*4  この六府とは六人の王爺である。それぞれ順、欽、黄、呉、張、十三の姓を持つ。つまり什三王爺を含めて六府王爺とよぶ。なお、現在、福建省の南沙崗には「大房頭 六姓府」という廟がある。その王爺の姓は順、欽、黄、朱、李、十三である。潤沢宮の王爺とは異同がある(前引、陳仕賢編著『宗教鹿港』、29頁)。
*5  顏芳姿「鹿港王爺信仰的發展型態」、新竹:清華大學歴史所碩士論文,1994年、82頁。
削除?→*6 王爺に災厄の解決を依頼することがある。「攔轎問事」という(前引、彰化県文化局弁理『民俗及有関文物普査工作案』専案計画、報告書、14頁)。
削除?→**7  前引、陳仕賢編著『宗教鹿港』、47頁。
削除?→**8 陳一仁『鹿港 文史采風』、鹿江文化芸術基金会、2004年所収「鹿港王爺暗訪儀式初探」、124頁。
*9  前引、顏芳姿「鹿港王爺信仰的発展型態」、2頁。
*10  同上、29-30頁。
*11 泉州普度は民国時代まで、禁令にもかかわらず盛大におこなわれた。6月から準備がはじまり、7月は月内毎日、いずれかの地区で普度がなされた。各家では客を招き酒宴を催す。地区内では梨園戯、高甲戯、木偶戯、打城戯が競って演じられた。演戯が催されなければ見くだされた(陳垂成主編『泉州習俗』、福建人民出版社、2004年、10頁)。現代中国では、こうした民俗は迷信、陋習、浪費として規制されてきたため、一部の習俗としてのみ保持されているようである。