鹿港古風貌(図説)


 
  台湾鹿港の風貌は人を惹きつける。理由はいろいろであろう。なかでも18世紀後半から数十年間、泉州その他、海の彼方との交易により活況を呈したこと、彼らの拠り所に寺廟があり、それが地域住民によりだいじに守られてきたこと、そして、繁栄は遠く去っても、なお7月中元の生活習俗などにおいて伝統的なものが息づいていることなどは魅力の核心にあるものだろう。
 19世紀後半から、鹿港は港湾の整備が進まず、そのため大型船の出入りもなく、交易は衰退した。また日本時代にかろうじて砂糖、塩を運ぶ鉄道が作られもしたが、商活動の繁栄、八郊による華々しい交易は遠いむかしの話になった。しかし、現代台湾では近代化を成し遂げるとともに、人文精神の復興も叫ばれ、鹿港の価値が再認識されつつある。ここには上からの観光化や祝祭創設とは全く別の暮らしのなかの文化がある。大陸の故郷では多くは失せてしまった祭祀文化はとくに得難いものだといえる。
 以下は、三度の訪問を通してみた鹿港古風貌の一端である。

  一 龍山寺

 1786年創建  鹿港は乾隆49(1784)年に清朝公許の正式の港として開かれた。以来、泉州蚶江との貿易により活況を呈することになった。鹿港人の経済活動の根柢には寺廟があった。道光版『彰化県誌』によると、龍山寺は乾隆51(1786)年に「泉州七邑士民」が協力して建てたものという。この七邑とは、晋江、南安、恵安、安渓、道安、徳化、永春である。龍山寺の主尊はいずれも航海の安全とかかわる。すなわち「前大殿祀観音仏祖、後祀北極上帝」という*1。観音はいうまでもなく航海者の絶対的な守護神である。さらに、北極上帝もまた水とかかわる。北極上帝は今日なお広東東部の漁村では船の安全とかかわり、広くまつられる。いずれにしても龍山寺では、建立当初から仏菩薩と道教の神が共存していた。これは今も同様である。さらに、龍山寺では「龍王尊神」をまつる(後掲図版)。端午のときの龍王の巡行は民間の龍信仰を反映したものである。龍山寺は鹿港鎮で最大規模の寺院であるばかりか、台湾全土のなかでも最も貴重な廟宇*2である。
  道光年間の重修  道光年間(1821―1839)は鹿港の貿易の黄金時代であった。この間に鳳山寺、鰲亭宮(城隍廟)が建てられた。また龍山寺、金門館、新祖宮(媽祖廟)、南靖宮四座も重修された*3。重修後の龍山寺は今日みられる結構のものとなった。すなわち山門、五門殿、戯台、正殿、後殿からなる。正殿には観音菩薩、後殿は北極殿で北極上帝、風神、龍神をまつった*4。
 龍山寺は安眠所  龍山寺は鹿港に数多い寺廟のうち、とくに貧民に開放的な空間であった龍山寺は浅水碼頭(埠頭)から余り離れておらず、寺の周辺には苦力(kuli 肉体労働者)や傭工(雇われ労働者)が集まった。そのため、寺の廂廊と庭は、夜ともなると行き場のない者たちで満たされた。彼らは大陸から船に乗ってきた天下の「孤単者(ひとりもの)」である。彼らが安眠できる場所、龍山寺は貧しい者たちの保姆ともいえる存在であった*5。
 日本時代の受難  日本時代、明治37(1904)年、龍山寺は本願寺に接収され、その分寺となった。翌年、本願寺から木製の阿弥陀仏がもたらされた。そのため観音や十八羅漢は正殿から後殿に移された。ところが、大正10(1921)年、火災が起こり、後殿と堂内の神仏(観音、羅漢、北極大帝、龍王、註生娘娘、境主公など)はいずれも焼失した。 
  龍山寺の行事  龍山寺の主要行事は、現在、次のとおりである*6。2月19日が最大の行事である。寺では一週間前から読経の儀をはじめる(八天)。19日の当日は午前中の読経(図版18)、午後は2時半から普度をおこなう。信徒は鹿港の住民が中心である。この寺院には住持はいない。80代の老媼が信徒代表として読経を進める。普度の儀は出使者の林必行氏が中心になって進める(図版19)。6月19日、9月19日も、それぞれ1日(一天)の規模で観音菩薩のための行事をする。
 このほかの行事としては次のようなものがある。1月15日の元宵節。この日、龍山寺では簡便な灯を多数用意して、参拝者に分ける(図版20)。子を願う人はこれを持ち帰り、寝床の下に置く。さいわい子が生まれたらお礼参りをする。3月20日は註生娘娘の誕生日。4月8日は灌仏節で、仏に水をかける。5月5日は龍王の巡行がある。この日は天后宮の水仙を伴い、海辺「吉安小道」までいき、龍舟開光の儀をする。7月29日には地蔵王をまつる。冬至は各家庭で祝うが龍山寺ではとくに行事はない。12月8日は臘八といい、粥を作って人びとに分ける。
 なお、龍山寺では毎日、午前と午後、信徒有志らの誦経がおこなわれる。午前は朝5時半から、午後は4時から、それぞれ一時間を費やす。さらに月の一日(ついたち)と十五日の朝は一時間半、誦経する。2012年3月9日、午後の信徒数は60名ほどであった(図版21)。
 これとは別に、民俗的な祭儀として臨時に換花の儀がおこなわれる。これは風水師でもある林必行氏が担う。換花の儀は福建の民間信仰であり、台南臨水夫人廟でもみられる。そこでは臨水夫人が女児を男児に換えてくれる。  
   

   図版1  龍山寺は乾隆47(1782)年に原初の位置(暗街仔)から移転して、現在地(龍山里金門巷)に建てられた(寺伝)。龍山寺の創建年(寺伝では1653年だが)、規模はわからない。二百年ほど前の古地図。
 図版2 龍山寺山門。1831年の「重修龍山寺記」には「其山門宏整、其前後空潭映月(その山門は大きく整っていて、その前後の人気のない潭には月が映えている)」とある。以前は今と違って水潭(水を湛えたところ)が寺の前後にあった。
 図版3  龍山寺五門殿。このすぐ背後に戯台がある。
 図版4  戯台。五門殿を抜けると、すぐ戯台がある。かつて観音聖誕の行事の日にはここでさかんに演劇がおこなわれた。
 図版5 藻井。戯台の天井には藻井(龍井、方井、圜)とよばれる装飾が施されている。これには火伏せの意味も込められていた*7。
 図版6  龍山寺拝殿。この奥が正殿となる。そこには観音菩薩、註生娘娘などがまつられている。
 図版7  正殿の観音菩薩二体。大きいのは1962年、前面の小さいものは1927年制作。
 図版8 正殿内の七宝銅観音菩薩。かつて、信徒はこの菩薩像を借りて家に持っていき、家中の平安を祈った。こうした風習は閩南のものであろう。その名残は今日、福建省安海鎮でもみられる。
 図版9 2011年の年末、安海鎮星塔境のk氏宅では、安平橋(南宋時代の石橋)上の水深亭にまつられる仏祖(観音)を迎えてまつった。これは一ヶ月の滞留後、また水深亭に帰還する。
  図版10 水深亭の仏祖を乗せてきた轎。
 図版11  正殿内の註生娘娘。子授けの神。この前で不定期に換花の儀がおこなわれる。
 図版12  龍王尊神。鹿港では現在、端午の日に龍舟の競漕をする。それに先立ち、龍山寺に安置された龍頭(龍王尊神)が市内を巡る。
 図版13  龍王の巡行。朱熹祠内の掲示物(複写)。福建省安海鎮でも端午に龍王頭を担いで巡行する。この行事は嗦囉嗹(suo luo lian)ともよばれ、今日では祝祭化している。この習俗はかつては泉州地区および晋江、南安の海辺では盛んにおこなわれたが、今日では安海に唯一、伝承されている*8。
 図版14  龍山寺後殿。日本時代にはここに観音菩薩と北極上帝、風神、龍神が置かれたが、1921年に焼失した。現在は、日本時代に本願寺からもたらされた阿弥陀仏がここに置かれている。
 図版15  龍山寺への進香団の先駆け。2011年、雲林の媽祖を報じる一団が天后宮への参拝の途次、立ち寄った。龍山寺は観音の聖誕、得道、出家の行事(二月、六月、九月の一九日)のほか、時どきに進香団が立ち寄る。
 図版16  龍山寺への進香。媽祖の魁をする千里眼。後ろは順風耳。
 図版17  龍山寺への進香。観音の前に置かれた媽祖。媽祖はしばらく安置されてから天后宮に向かう。
  図版18  旧暦2月19日は観音の生日。熱心な信徒は誦経し、また多くの人は花を供えて参拝する。誦経を率いるのは信徒の老媼である。
 図版19 旧暦2月19日の午後は外で普度をおこなう。普度の儀は出使者(在家居士)の男性が中心になって進める。
 図版20 龍山寺では1月15日の元宵節に、灯を多数用意して、参拝者に分ける。子を願う人びとが持ち帰り、寝床の下に置く。
 図版21  龍山寺後殿。龍山寺では毎日、午前と午後、信徒有志らの誦経がおこなわれる。午後は4時から5時まで。ほとんどが女性である。
                
                                                           (2012.7.24 補訂)


*1 葉大沛『鹿港発展史』、左羊出版社、1997年、457頁。
*2 漢宝徳主編『鹿港古風貌之研究』、鹿港文物維護及地方発展促進委員会、1978年、77頁。
*3 前引、葉大沛『鹿港発展史』、、450頁。
*4 陳仕賢『龍山聴唄・鹿港龍山寺』、鹿水文史工作室、2004年、33頁。
*5 前引、漢宝徳主編『鹿港古風貌之研究』、40、77頁。
*6  以下は2012年3月9日、龍山寺での聞書による。
*7 前引、陳仕賢『龍山聴唄・鹿港龍山寺』、78頁。
*8 泉州市文化局・泉州市新海路閩南文化保護中心編『泉州非物質文化遺産図典』、海峡文芸出版社、2007年、176頁。