台湾鹿港地域文化研究 (要旨)


                                                                
    目次
 1 本研究の位相
 2  鹿港概説
  1. 略史
  2. 鹿港地域文化の描写
 3 鹿港の民俗
 4 鹿港王爺信仰―事例研究1「潤沢宮の暗訪」
 5  鹿港龍山寺―事例研究2           (1-6  野村伸一)
 6  鹿港の普度―事例研究3            (共同執筆)
  1. 地蔵王廟の7月祭儀
  2. 普度公の儀礼
  7 まとめ―鹿港と泉州                (共同執筆、文責野村)

  
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 1  本研究の位相
 本研究の出発点を確認しておきたい。先に「東方地中海地域文化の生成と変容」という文のなかでおおむね次のように記した。従来、日本を中心にした日中、日韓の比較研究が多かった。それは一定の成果を収めたが、限界もある。それを克服するために「日・中・韓の現地の目、見方を通して、この海域を統合された文化地図のなかに収めようとする」。そして、三つの地域文化を拠点とすることを述べた。すなわち、1.泉州・廈門・台湾地域、2.韓国全羅道地域、3.琉球諸島・九州を地域単位として取り上げると。
  鹿港(ルーガン)は台湾の中部西海岸にあって、18,9世紀には大陸との交易の中心として栄えた。その地域文化は独特のかたちで残存し、今日に至っている。鹿港を現地研究の対象とすることは台湾地域文化のみならず、中国・台湾間の文化の移動と定着の考察にもなる。そして、さらにいえば、それらを含む東シナ海地域文化の全体像を考察するのに貢献するものともいえる。
 
 2  鹿港概説
  1. 略史

 葉大沛『鹿港発展史』*1によると、鹿港は17世紀後半から百年ほど、大陸移民が徐々に住みつき(興起)、やがて、乾隆49(1784)年に清朝公許の正式の港として開かれた。以来、50年余り、泉州蚶江(ハンジャン)との貿易により活況を呈した(鼎盛)。だが、そののちは、港湾施設の不備などにより衰退に向かい(衰退)、日本統治の時期にそれが加速された(没落)。こうした四つの概括(命名)が妥当かどうかはともかく、以下、同書により、主要な記事を摘記しておく。

 興起(1681-1783)*2
 1681年、明の鄭長が鄭屯弁となり、鹿仔港から海に出て北上し、淡水を開墾した(『台湾府志』)。
 1684年、高拱乾『台湾府志』に「鹿仔港」初見。鹿仔渓ともいう(総図)。
          (蘇府王爺をまつる奉天宮はこのころ創建か<廟伝>。)
 1717年、冬日、廈門、澎湖島の漁民らがきて、烏魚(ウーユ)(ボラ)を捕る(『赤嵌筆談』)。
  1723年、はじめて彰化県を設ける。鹿仔港ここに属す。
 1725年、晋江の陳姓族人、鹿港に入墾。現、秀水郷。
          郭氏、保安宮創建、広沢尊王をまつる。
          臨水宮創建(玉順里)。
  1730年、文徳宮創建、温王爺をまつる(現、街尾里)。
          潤沢宮創建、三王爺をまつる(市場と暗街仔の入口。現、大有里)。
  1736年、士民、天后宮創建(『彰化県志』)。
  1737年、粤人、三山国王廟創建。
  1741年、劉良璧『重修台湾府志』に、鹿仔港は「水陸碼頭、穀米聚処」、また「鹿港夕照」、「鹿港」の語の初出。
          ○福建、広東からの移民、相次ぐ。多くは無許可。
  1765年、営盤地居民、永安宮創建、薛王爺をまつる(現、新宮里)。
  鼎盛(1784-1839)
  1784年、清朝、泉州府晋江県蚶江(ハンジャン)と彰化県鹿仔港との正式の往来を認める(設口開渡)。
  1786年、泉州七邑士民、協力して龍山寺創建。
          天地会党人林爽文、官憲に対しての挙兵。1788年に鎮圧される。
  1788年、新祖宮(天后宮)創建。
  1806年、漳州人と泉州人の衝突、分類械闘。数ヶ月つづく。
  1811年、文祠、武廟創建。
  1814年、泉廈八郊*3および船戸、舗戸、拠金して旧祖宮(天后宮)重修。
 1815年、地蔵王殿、大衆爺(威霊廟)創建。
  1822年、鳳山寺創建、広沢尊王をまつる(1824年、落成)。
  1824年、郭厝(グォツオ)居民、忠義廟創建、関帝をまつる。
          泉廈郊、天津にいく者多数。米を買い入れる。
  1831年、龍山寺重修。
  1834年、新祖宮(天后宮)重修。
  1836年、周璽編纂『彰化県志』12巻成る。鹿港大街の賑わいを記す。「街衢縱橫、長三里許,泉廈郊商多居此,舟車幅輳,百貨充盈。全台郡城外,各處貨市,當以鹿港為最。
     鹿港では施、黄、許の三姓が数が多く、ややもすると械闘をする。これを禁じるようにすべきだという(嘉義陳震曜『応聘修邑志』)。 
  1839年、鰲亭宮(アオティンゴン)(城隍廟)創建、城隍をまつる。
  衰退(1840-1894)
  1840年、鹿港の水深1丈1、2尺(姚瑩「台湾水師船砲状」)。
  1842年、福徳祠創建、土地公をまつる(現、玉順里)。
  1847年、龍山寺信徒拠金、毎年6月19日に観音聖誕の醮を設けることにする(有「捐縁碑」)。
  1850年、前港施姓、南泉宮創建、普庵祖師をまつる。また真如殿創建、前港上帝公をまつる。頂菜園の居民、順義宮創建、順王爺をまつる。     
 1873年、丁紹儀『東瀛識略』において、鹿港の水深が浅く、小舟以外は通行不能と指摘。
  1878年、地蔵王殿重修。
  没落(1895-1945)
  1895年、日本軍(川村景明の率いる第一旅団)、鹿港占領。
 1896年、日本、地蔵王殿に「国語伝習所」を設ける。
 1896年、日本の奨励により塩田開創。
  1902年、玉渠宮創建。
  1907年、日本、龍山寺を本願寺の分寺とし、龍山寺の寺名を廃す。
  1911年、鹿港、彰化簡の新高鉄道完工。
  1921年、龍山寺火災、羅漢一尊を残して主要仏像焼尽。
  1922年、各界人士、拠金、旧祖宮重修。
  1926年、鳳山寺重修。
 1935年、龍山寺、地震により損壊。
  1938年、龍山寺後殿重修。
  1945年、光復後、廈門、泉州の帆船、鹿港にきて貿易回復。

  2. 鹿港地域文化の描写

 李昴(リアン)(1952-)『殺夫』(1982年、藤井省三訳『夫殺し』、宝島社、1993年)は「鹿城」(鹿港)を舞台にした小説である。主人公の女性は1940年代の鹿港の一庶民である。その内面描写はもちろん創作であるが、鹿港生まれの李昴はこの港町の社会的な雰囲気を適確にえがいている。以下、そのなかから盆行事の箇所の抜き書きである。
  鹿港の盆行事は一ヵ月つづく。それは泉州と同じく念入りに盛大におこなわれてきた。この行事は縮小しつつ(七月半ばに集中させて)、現在も残存している。大陸ではすでに陋習とされ、禁止されているので、貴重である。

 「月の始めは放水灯*4、二日目には普王宮*5、三日目には米市街…29日は通港普、30日は亀粿店*6、月の始めは乞食寮、二日目は米粉寮*7」(普度歌)
  「こうして七月の間は、各地区の人々は…さまよい歩く霊を祭り、町の平安を祈るのであった。」*8
 このときの賑わいは「時に正月を遙かに上回った。」また、鹿港のなかでも漁師たちが無縁仏をとくに祀って海の安全を祈った。七月は鬼月なので、この月に身ごもった子は生涯、よい目を味わえないとされる*9。
  吊死鬼(ディアオスーグゥイ)(首吊り幽霊)を怒らせると、生きている者に取りついて、死に至らせると庶民は信じていた*10。その鬼神が自分と夫を襲うのではないかとおもった主人公の女性は「媽祖」と「観音」に助けを求める*11。
 盆行事は午後2時か3時ごろから日暮れまで四、五時間おこなわれる。供物には豚の頭も、魚もある。皿は十も二十も並べる。こうして城隍廟から解放された遊魂に十分なもてなしをする*12。
 祭壇には、米、塩、砂糖も供えられ、最後に紙銭が焚かれる*13。
 路地の角に置かれた供物は無祀孤魂のためのものなので、それを取って食べてはならない。人びとは「この種の供養を見るだけでも悪霊にとりつかれると恐れ、うっかりその前を通ってしまったときなどは、必ずすぐさま供養の場に向かって唾を吐くのであった」*14。この行為は悪霊との縁切りということなのだろうか。。

 3 鹿港の民俗

 鹿港区(鹿港鎮、福興郷、埔塩郷)には特色ある民俗行事が比較的数多く残っている。彰化県文化局弁理『民俗及有関文物普査工作案』*15によると、24の項目があげられている。そのうち、主要なものを記しておく。
 (1) 鹿港暗訪(後述)
 (2)  鹿港迎龍王(5月の行事、後述)
 (3)  鹿港鎮の七月輪普と埔錦地區の十二普(後述)
 (4) 鹿港拝天公  鹿港では正月九日に各家で玉皇を盛大にまつる。人びとはこの日を「小過年」という。
 (5)  鹿港奉天宮の収散魂  旧暦8月20日に、奉天宮蘇府王爺のもとでおこなう。7月の普度ののちに、なお居残った鬼魂を収めるためにおこなう。
 (6)  鹿港送春糧  王爺来臨の神意が下されたときに、その糧食を整えて奉献する儀礼。王爺廟で不定期におこなう。このとき南部の「焼王船」と同様の王船送りをする。近年では明国84(1995)年に忠義廟の「恵安六府千歳」の意向で挙行したことがある。
 (7) 鹿港王爺廟の安五営  諸所の角頭廟(多くは王爺廟)で地域の安寧のためにおこなう。廟の周辺五方に将兵を配置して境内の平安を祈る。清明節前後の挙行が多い。
 (8)  鹿港王爺廟の放兵収兵  7月に鬼門を開くが、その前に五方の将兵を呼び戻す(収兵)。そして8月初に、ふたたび五方に将兵を配置する(放兵)。将兵の往来にあたっては、供物でねぎらう(犒賞、犒将)。
 (9)  鹿港龍山寺の換花
   信徒の女性は花を用意して龍山寺の註生娘娘のところにいき、男児を祈る。寺の側(住持はいないので、出使者<在家居士>の男性が担当)では、花を束ねて女性の髪に挿してあげる。この際、男児は白花、女児は紅花で象徴される。信徒の女性は花を持ち帰って化粧台の上に保存する*16。
 
 年中行事
 『彰化県志稿』*17によると、この地方の主要な年中行事の内容は次のとおりである。
 
 正月  除夕に茶、甘味の物、花を祖先に供える。子の時には神がみと祖先をまつる。元旦には縁起のよい方向にでかける(出行)。
 四日、神がみが天から戻る(12月24日に送り出される)。九日、天公生。十三日、関帝爺生。十五日、上元。
 二月  二日、土地公誕辰。十九日、観音仏祖誕辰。各戸多く観音寺廟に詣でてまつる(後述、事例研究)。この日にはまた多くの人が廟にいき「補運」する。
 三月  三日節、漳州人は三月三日に墓参りをして祖先をまつる。泉州人は清明節に墓参する。十五日、「大道公生」、保生大帝、俗称大道公あるいは呉真人の誕生日。福建同安人が信奉する。二十三日、「媽祖生」、媽祖の誕生日。
 四月  八日、「浴仏節」、灌仏ともいう。
 五月  [五日、鹿港迎龍王。龍山寺から龍王を奉じて市内を行進し、海岸にいく。そして龍舟に開光の儀を施し、のち龍舟競漕。]
 六月  十九日、仏祖生。観音の得道昇天の日。
 七月  七日、七夕。俗称「七娘媽誕辰」あるいは「七娘媽生」。家々では子女の生長を祈願して七娘媽をまつる。黄昏時に門口に花などの供物を置く。七日はまた「床母(チュアンム)[子女の守護神。床神]生」。この月、普度。鹿港は七月一日から八月二日まで、日を変えて各所で普度をする(輪普)。
 八月  十五日、中秋。この日はまた太陰娘娘すなわち月神の誕生日。夜分、月娘を拝む。また土地公の誕生日ともいう。各戸では公媽(祖先)*18や土地公を拝む。
 九月  九日、重陽節。
 十月  十五日、下元節。水官大帝の誕生日。
 十一月  「入冬」。冬至の前に祖先を祀る。
 十二月  二十四日、「送神日」。この日、地上の衆神は昇天し、天公に人びとの一年の善悪功罪を奏上する。送神後、大掃除。ただし、家内に不孝があれば送神はしない。謹慎しないと、死人が祟りをなすという。二十五日、天神下降、民間を監視する。二十九日(または三十日)、「過年」あるいは「除夕」。黄昏時に各戸で敬虔に祖先をまつる*19。「辞年」、俗称「做年」という。
                  
 4 鹿港王爺信仰―事例研究1「潤沢宮の暗訪」*20

 現場  2011年10月1日(旧暦9月5日)、台湾鹿港の潤沢宮(図版1)で暗訪(an fang)がおこなわれた。鹿港の暗訪は、地域共同体に災厄、不安が生じたとき、あるいは王爺が童乩に降下して巡境を命じたときに臨時におこなう。暗訪は王爺などの神の力を借りて、地域の秩序を回復させる祭儀である。暗訪は鹿港各所の王爺廟でしばしばなされる。一方、台北青山宮(霊安尊王)、新竹城隍廟などでも暗訪の儀礼があるが、これは定期におこなわれるという違いがある*21。                      
 鹿港の王爺二類  鹿港の王爺は大別して二類に分けられる。第一は大陸からの移民が将来した王爺で、この多くは角頭廟(後述、注21)にまつられる。第二は代天巡狩の王爺である。王爺は外界を巡り歩いていて鹿港に至ったとき、童乩に降下する。このときの王爺は鹿港の王爺廟の客神である*22。
 夜間の巡行  夜間、土地公、七爺(qi ye 謝将軍)、八爺(ba ye 范将軍)、神輿に乗った王爺(図版2)、捕り手たちが音楽とともに練り歩く。かつては、闇のなかを練り歩いたので畏怖すべき雰囲気に包まれたという。今日では、家の前にあらかじめ供物を供え、行列を迎え、拝礼する家もある。恭敬の念はあっても、畏怖という感じはない。しかし、夜更けに神がみの来訪を待ち受けるのであるから、そこには相応の信仰心が窺える。      潤沢宮  潤沢宮(1730年創建)は町の中心部后宅巷(houzhai xiang)にある。この廟は后宅の角頭廟である[角頭jiaotouは祭祀圏の最小単位*23]。李殿王のほか什三王爺、什三王爺夫人、三千歳、六府王爺*24、土地公などをまつる。この地域は銭江(福建省晋江県)施姓の人が数多く住み、彼らが潤沢宮を支えている。この廟の王爺は福建省晋江県金井鎮の南沙崗(ナンシャガン)からきたという。王爺は、普段は王爺廟にいるが、暗訪の際は、まず天の玉皇のところにいき、命を受ける。そうして廟に戻り、さらにまた故郷に戻ってから当地にくるという。
 今回は二週間前に玉皇の命を受けたが、六府王爺の大陸(故地)訪問などがあって、暗訪の実施がやや遅れた。潤沢宮では昨年も暗訪をやった。今年はそれに較べると小規模なもので、郊外の三か村(査某旦(チャモウダン)、澎湖厝(パンフツオ)、脱褲庄(トゥオクジュアン))を巡るに留まった。規模が大きいばあいは、二晩かけて内巡(境内)、外巡をそれぞれやる。前者は角頭廟の管轄区域を巡るものであり、後者はその外延、広くは鹿港全域を巡るものである*25。

 〔映像〕     その一  13分11秒  /  その二    10分15秒

  1. 暗訪―草人、替身、巡行(映像その一参照)
 巡行以前  暗訪の前日、廟の管理委員たちが男女の草人(cao ren)を作る。これは翌日、地域の人びとの厄払い(替身)に用いられる。元来は、個々人が作って廟に持ってくるものであったが、近年は廟の方で作ったもので代表させる。暗訪の当日は、昼前に、王爺の兵隊らを召集する(調営)。つづいて、昼食のもてなしをする(犒賞)。
  巡行(夜巡)  10月1日の夕刻、巡行の担い手たちが廟にきて、身を浄める。そして玉皇大帝から巡狩の命令を授かったあと、午後7時半ごろ列をなして廟を出る(夜巡 ye xun)。一行は、自動車に分乗し、鹿和路に沿って東方3キロほどのところにある査某旦(チャモウダン)のあたりまでいく。そこで下車してから、村の道にはいり、巡行をはじめる(図版3)。途中、音楽と爆竹の音が鳴り響く。廟前の広場、特定の家*26の前でみせる八爺(ba ye 黒面)の機敏な動きは悪しきモノを捉えるかのようで強い印象を与える。今年(2011年)の暗訪は昨年とは異なり、規模が小さい。それでも2時間余り練り歩く。台湾南部の王爺の巡行は昼間、賑やかななかでおこなわれ、途中、飲み食いもあるが、暗訪では飲食のもてなしは一切ない。午後11時前に廟に帰還する。
  2. 暗訪―草人送り、焼却、排班・収兵(映像その二参照)
 草人送り、焼却  廟への帰還後、草人、供物などを持って早足で川べりまで歩く。川辺では童乩が七星剣を携え煞を圧服するなか、草人を焼却し、川(海)に流す(図版4)。一行はこの際、無言で、また戻る際にも人の名をよんだり、振り返ったりしてはならない。煞に犯されることを恐れ、すみやかに帰還する。
 排班・収兵  廟に戻ってからは、王爺の命を受けた班長が兵卒たちを呼び返す。よく通る声で、速やかに帰還せよとくり返し命じる。そうして廟の入口右側に設けた天台卓(上蒼=玉皇の座)が撤去され、六府王爺は廟内のもとの位置に安置される。

  3. 鹿港の王爺について                             
    1. 鹿港の王爺の分類 
 鹿港には王爺がたいへん多い(街区の廟は約60余り*27)。鹿港鎮の大小の廟の三分の二以上が王爺を主神もしくは陪神としてまつる。当然、王爺の祭儀は鹿港の人びとの宗教生活と密接な関係がある。鹿港の王爺は起源からみて三類に分類される。
   (1) 先民が故郷から携えてきた王爺。例えば街尾「官林宮」の朱府王爺、東石「東興宮」の李府王爺。
  (2)  鹿港を開いたときの王爺。例えば「奉天宮」の蘇府大二三王爺。
  (3)  代天巡狩する王爺。この王爺は天空から各地を見回っている。そして時々、各地の廟に降りていく。これは童乩がその意向を受けて皆に告げ知らせる。このときの王爺は客神(客仏)である。そして、その原籍地が泉州の恵安、石獅、蚶江などのばあいもある。これは鹿港の王爺のひとつの特色である*28。ちなみに潤沢宮の什三王爺はこの第三類のものである。
   2. 鹿港の暗訪の図像
  民生路の古廟「永安宮」の梁には諸種の彩色画がみられる。そのひとつに王爺の暗訪をえがいたものがある。絵は近年のものだが、七爺、八爺のほか随行者のかつてのいでたちがよくうかがわれる(図版5)(図版6)(図版7)(図版8)。
   3. 草人
 草人は稲藁で作る。額の箇所に縦の線を付けて男女を区別する。男は三本、女は四本である。これには経衣、金紙、銀銀を添える。童乩はこの草人を持って各人の背、胸に照らし、最後に、祈願者をして草人に息を吐きかけるように指示する。これにより身心の悪気が草人に移る(替身の儀)。儀礼を済ませた草人は元来は廟入口右に設けた天台卓のもとに置いておく。今回は、男女、各三体の草人が地域住民を代表していたので、替身の儀をするたびに、同じ草人を使った。
 ヒトガタの民俗  草人を人間の代わりとみなし、これを祭祀に用いることは東方地中海地域の巫俗では広くみられる。台湾各地の廟の小法事で用いる紙製のヒトガタも本質的には同じものである。済州島では海難死した人の霊魂を探すとき、神房が背中にヒトガタを背負って、魂よばいをする(撫魂(ムホン)クッ)。朝鮮半島本土ではかつて正月14日夜、チェウンというヒトガタを作り、これに厄を負わせて道端に棄てた(図版9)。また朝鮮半島西南島嶼部でもヒトガタ(ホスアビ=かかし)を作り、これに災厄を負わせて海に流した(民間ではホスアビを龍王とよんで気楽に願い事をいいかけたりもするが、元来はそのもとに配属されたモノであろう)。
 
  4. 小考
 台湾南部の王船巡行を伴う王爺祭祀は今日、祝祭化し多数の観光客が押し寄せる。一方、鹿港の暗訪は地域のカミゴトそのもので、けっして人にみせるものではない。それが今も、必要に応じて不定期におこなわれているのは興味深い。それは王爺の意向を忖度する童乩がいて、その代言が地域住民によって真摯に受けいれられていることを意味する。以下、暗訪祭儀をみた上でのまとめである。
 第一に、王爺の巡行が民俗として生きていることがあげられる。規模の大小はあっても、夜間に神輿が巡ることをありがたく待ち受ける家庭があること、そのために主宰する廟の神人が日ごろ関係する村を巡ること、これは地域の繋がりを確認する意味で貴重である。
 第二に、この祭儀の歴史を遡ると、その貴重なことが改めて感じられる。暗訪(夜巡)の文化は福建の泉州地域(とくに晋江)からきた。鹿港の漢人人口の85%は泉州三邑(恵安、晋江、南安の三県)を故郷とする人たちである*29。暗訪だけでなく、鹿港の宗教文化の多くは泉州地区に由来するといえる。ところで、顏芳姿によると、泉州三邑ではおそらく宋代以降、暗訪の類いの巡行がおこなわれていたとみられる。すなわち、晋江衙口村の定光庵は観音をまつる庵で、宋代に創建された。ここには伽藍神がまつられていて、これが毎年正月、「放兵出仏」をして鬼祟(亡霊の祟り)を防いだ。また、地域に常ならぬ災厄が醸成されると、人びとは伽藍神に夜間の巡行をしてもらった。これを「咬火(ヤオフオ)」という。これは暗訪そのものである。さらに、7月の普度の際にも衙口村では各所の王爺により鬼祟の追却をした。このときには草人や紙銭も村外に送った*30。この祭儀が現行の暗訪にもみられる。
 第三に、暗訪は地域文化の移動と持続を考察する上で格好の手がかりとなる。暗訪だけでなく、普度も維持されている。かつて泉州では7月の普度は家庭で、また地域で大規模に催された。日をずらしながら各地区が順に競って普度をした*31。この文化は大陸では今日みられないが、鹿港では維持されている。そのほか、泉州三邑では途絶えた個々人の除災儀礼なども、鹿港では生活のなかに息づいている(玉渠宮では童乩がいて日常的に小法事をしている)。それらを地域文化の移動と持続という面から比較していくことは今後の課題でもある。
 とりあえず、鹿港の暗訪に関連しては以上の三点を指摘しておく。 (2012.7.24 補訂)

 5  鹿港龍山寺―事例研究2*32          

 1786年創建  鹿港は乾隆49(1784)年に清朝公許の正式の港として開かれた。以来、泉州蚶江(ハンジャン)との貿易により活況を呈することになった。鹿港人の経済活動の根柢には寺廟があった。道光版『彰化県誌』によると、龍山寺は乾隆51(1786)年に「泉州七邑士民」が協力して建てたものという。この七邑とは、晋江、南安、恵安、安渓、道安、徳化、永春である。龍山寺の主尊はいずれも航海の安全とかかわる。すなわち「前大殿祀観音仏祖、後祀北極上帝」という*33。観音はいうまでもなく航海者の絶対的な守護神である。さらに、北極上帝もまた水とかかわる。北極上帝は今日なお広東東部の漁村では船の安全とかかわり、広くまつられる。いずれにしても龍山寺では、建立当初から仏菩薩と道教の神が共存していた。これは今も同様である。さらに、龍山寺では「龍王尊神」をまつる(後掲図版)。端午のときの龍王の巡行は民間の龍信仰を反映したものである。龍山寺は鹿港鎮で最大規模の寺院であるばかりか、台湾全土のなかでも最も貴重な廟宇*34である。
  道光年間の重修  道光年間(1821―1839)は鹿港の貿易の黄金時代であった。この間に鳳山寺、鰲亭宮(城隍廟)が建てられた。また龍山寺、金門館、新祖宮(媽祖廟)、南靖宮四座も重修された*35。重修後の龍山寺は今日みられる結構のものとなった。すなわち山門、五門殿、戯台、正殿、後殿からなる。正殿には観音菩薩、後殿は北極殿で北極上帝、風神、龍神をまつった*36。
 龍山寺は安眠所  龍山寺は鹿港に数多い寺廟のうち、とくに貧しい人たちに開放的な空間であった。龍山寺は浅水碼頭(埠頭)から余り離れておらず、寺の周辺には苦力(kuli 肉体労働者)や傭工(雇われ労働者)が集まった。そのため、寺の廂廊と庭は、夜ともなると行き場のない者たちで満たされた。彼らは大陸から船に乗ってきた天下の「孤単者(ひとりもの)」である。彼らが安眠できる場所、龍山寺は貧しい者たちの保姆ともいえる存在であった*37。
 日本時代の受難  日本時代、明治37(1904)年、龍山寺は本願寺に接収され、その分寺となった。翌年、本願寺から木製の阿弥陀仏がもたらされた。そのため観音や十八羅漢は正殿から後殿に移された。ところが、大正10(1921)年、火災が起こり、後殿と堂内の神仏(観音、羅漢、北極大帝、龍王、註生娘娘、境主公など)はいずれも焼失した。
  龍山寺の行事  龍山寺の主要行事は、現在、次のとおりである*38。2月19日が最大の行事である。寺では一週間前から読経の儀をはじめる(八天)。19日の当日は午前中の読経(図版18)、午後は2時半から普度をおこなう。信徒は鹿港の住民が中心である。この寺院には住持はいない。80代の老媼が信徒代表として読経を進める。午前10時ごろ、読経に加わる信徒は百数十名にのぼった。午後の普度の儀は出使者の林必行氏が中心になって進める(図版19)。6月19日、9月19日も、それぞれ1日(一天)の規模で観音菩薩のための行事をする。
 このほかの行事としては次のようなものがある。1月15日の元宵節。この日、龍山寺では簡便な灯を多数用意して、参拝者に分ける(図版20)。子を願う人はこれを持ち帰り、寝床の下に置く。さいわい子が生まれたらお礼参りをする。3月20日は註生娘娘の誕生日。4月8日は灌仏節で、仏に水をかける。5月5日は龍王の巡行がある。この日は天后宮の水仙を伴い、海辺「吉安小道」までいき、龍舟開光の儀をする。7月29日には地蔵王をまつる。冬至は各家庭で祝うが龍山寺ではとくに行事はない。12月8日は臘八といい、粥を作って人びとに分ける。
 なお、龍山寺では毎日、午前と午後、信徒有志らの誦経がおこなわれる。午前は朝5時半から、午後は4時から、それぞれ一時間を費やす。さらに月の一日(ついたち)と十五日の朝は一時間半、誦経する。2012年3月9日、午後の信徒数は60名ほどであった(図版21)。
 これとは別に、民俗的な祭儀として臨時に換花の儀がおこなわれる。これは風水師でもある林必行氏が担う。換花の儀は福建の民間信仰であり、台南臨水夫人廟でもみられる。そこでは臨水夫人が女児を男児に換えてくれる。 

  (図版1)  龍山寺は乾隆47(1782)年に原初の位置(暗街仔)から移転して、現在地(龍山里金門巷)に建てられた(寺伝)。龍山寺の創建年(寺伝では1653年だが)、規模はわからない。二百年ほど前の古地図。
 (図版2) 龍山寺山門。1831年の「重修龍山寺記」には「其山門宏整、其前後空潭映月(その山門は大きく整っていて、その前後の人気のない潭には月が映えている)」とある。以前は今と違って水潭(水を湛えたところ)が寺の前後にあった。
 (図版3)  龍山寺五門殿。このすぐ背後に戯台がある。
 (図版4)  戯台。五門殿を抜けると、すぐ戯台がある。かつて観音聖誕の行事の日にはここでさかんに演劇がおこなわれた。
 (図版5) 藻井。戯台の天井には藻井(龍井、方井、圜)とよばれる装飾が施されている。これには火伏せの意味も込められていた*39。
 (図版6)  龍山寺拝殿。この奥が正殿となる。そこには観音菩薩、註生娘娘などがまつられている。
 (図版7)  正殿の観音菩薩二体。大きいのは1962年、前面の小さいものは1927年制作。
 (図版8) 正殿内の七宝銅観音菩薩。かつて、信徒はこの菩薩像を借りて家に持っていき、家中の平安を祈った。こうした風習は閩南のものであろう。その名残は今日、福建省安海鎮でもみられる。
 (図版9) 2011年の年末、安海鎮星塔境のk氏宅では、安平橋(南宋時代の石橋)上の水深亭にまつられる仏祖(観音)を迎えてまつった。これは一ヶ月の滞留後、また水深亭に帰還する。
  (図版10) 水深亭の仏祖を乗せてきた轎。
 (図版11)  正殿内の註生娘娘。子授けの神。この前で不定期に換花の儀がおこなわれる。
 (図版12)  龍王尊神。鹿港では現在、端午の日に龍舟の競漕をする。それに先立ち、龍山寺に安置された龍頭(龍王尊神)が市内を巡る。
 (図版13)  龍王の巡行。朱熹祠内の掲示物(複写)。福建省安海鎮でも端午に龍王頭を担いで巡行する。この行事は嗦囉嗹(suo luo lian)ともよばれ、今日では祝祭化している。この習俗はかつては泉州地区および晋江、南安の海辺では盛んにおこなわれたが、今日では安海に唯一、伝承されている*40。
 (図版14)  龍山寺後殿。日本時代にはここに観音菩薩と北極上帝、風神、龍神が置かれたが、1921年に焼失した。現在は、日本時代に本願寺からもたらされた阿弥陀仏がここに置かれている。
 (図版15)  龍山寺への進香団の先駆け。2011年、雲林の媽祖を報じる一団が天后宮への参拝の途次、立ち寄った。龍山寺は観音の聖誕、得道、出家の行事(二月、六月、九月の一九日)のほか、時どきに進香団が立ち寄る。
 (図版16)  龍山寺への進香。媽祖の魁をする千里眼。後ろは順風耳。
 (図版17)  龍山寺への進香。観音の前に置かれた媽祖。媽祖はしばらく安置されてから天后宮に向かう。
  (図版18)  旧暦2月19日は観音の生日。熱心な信徒は誦経し、また多くの人は花を供えて参拝する。誦経を率いるのは信徒の老媼である。読経する信徒数は百数十名。
 (図版19) 旧暦2月19日の午後は外で普度をおこなう。普度の儀は出使者(在家居士)の男性が中心になって進める。
 (図版20) 龍山寺では1月15日の元宵節に、灯を多数用意して、参拝者に分ける。子を願う人びとが持ち帰り、寝床の下に置く。
 (図版21)  龍山寺後殿。龍山寺では毎日、午前と午後、信徒有志らの誦経がおこなわれる。午後は4時から5時まで。ほとんどが女性である。
                                            (2012.7.24 補訂)

 


*1 葉大沛『鹿港発展史』、左羊出版社、1997年。
*2  以下、葉大沛による区分をひとつの見方として年表に付した。同書では、各時期のうちになお前期、中期、後期がある。
*3  郊は各種の商業組織。二類がある。第一は対外的な貿易をする外郊。泉郊、廈郊、南郊など。第二は同一商品を扱う内郊。糖郊、油郊など。泉郊、廈郊は乾隆45(1780)年には成立していた(同上、、289頁)。
*4 溺死した孤魂を呼び寄せるために「水灯」を水中に放つこと(『彰化県志稿』(八巻、1958年~1976年、油印本)『中国地方志民俗資料匯編』華東巻(下)、書目文献出版社、1995年、1639頁)。現在は、7月15日に集中させている。ただし、民家では一日の午後3時から5時まで、「好兄弟」のために供物を供える(彰化県文化局弁理『民俗及有関文物普査工作案』専案計画、報告書、2006年、19頁)。
*5 現在の鹿港古蹟保存区内の老人会館。かつて万春宮があった。蘇府王爺をまつっていたので、王爺宮、王宮という。
*6  一本では「八月初一亀粿店」。七月は亀粿店(グゥイグォディエン)(餅菓子屋)が繁忙の季節なので、この日に普度をする(前引、『民俗及有関文物普査工作案』、25頁)。
*7  この日は、米粉寮、市場、雑貨店で普度をする(同上、25頁)。
*8  藤井省三訳『夫殺し』、宝島社、1993年、50-51頁。
*9  同上、51-53頁。
*10  同上、71頁。
*11  同上、74頁。
*12  同上、100-103頁。
*13  同上、106頁。なお、供物としての塩や紙銭を焚くことは沖縄でもみられる。
*14  同上、139頁。
*15 彰化県文化局弁理『民俗及有関文物普査工作案』専案計画、報告書、2006年。
*16  換花は狭義には女児を男児に換えるためのものだが、より広くは子を授ける儀礼としておこなわれる。台南の臨水夫人廟ではこれが日常的にみられる。「臨水夫人廟の花の祭祀「梗花欉」(1998年の映像)参照。 
 http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/koukasou/koukasouhtml.html
*17  前引、『彰化県志稿』(八巻、1958年~1976年、油印本)、1634-1643頁参照。
*18 中秋に月だけでなく、祖先をも拝むことは朝鮮の秋夕(チュソク)にも通じるもので興味深い。
*19  除夜に祖先をまつるのは,江南(たとえば蘇州<『清嘉録』>)、朝鮮半島西南島嶼部までは広くみられる。
*20 以下はサイト「台湾鹿港潤沢宮の暗訪―王爺巡行による平安への希求(附映像)」掲載の文章(全文)である(2012.7.25補訂)。http://www.keio-asia.org/documents/taiwan/anfang/
*21
*22  彰化県文化局弁理『民俗及有関文物普査工作案』専案計画、報告書、2006年、11頁。
*23  同上、11頁。より詳しくは三類に分けられる(後述「鹿港の王爺の分類」参照)。
*24  鹿港街区には30余りの角頭がある。陳仕賢編著『宗教鹿港』、鹿水文史工作室、2009年、21頁。
*25  この六府とは六人の王爺である。それぞれ順、欽、黄、呉、張、十三の姓を持つ。つまり什三王爺を含めて六府王爺とよぶ。なお、現在、福建省の南沙崗には「大房頭 六姓府」という廟がある。その王爺の姓は順、欽、黄、朱、李、十三である。潤沢宮の王爺とは異同がある(前引、陳仕賢編著『宗教鹿港』、29頁)。
*26  顏芳姿「鹿港王爺信仰的發展型態」、新竹:清華大學歴史所碩士論文,1994年、82頁。
*27 王爺に災厄の解決を依頼することがある。「攔轎問事」という(前引、彰化県文化局弁理『民俗及有関文物普査工作案』専案計画、報告書、14頁)。
*28  前引、陳仕賢編著『宗教鹿港』、47頁。
*29 陳一仁『鹿港 文史采風』、鹿江文化芸術基金会、2004年所収「鹿港王爺暗訪儀式初探」、124頁。
*30  前引、顏芳姿「鹿港王爺信仰的発展型態」、2頁。
*31  同上、29-30頁。
*32 泉州普度は民国時代まで、禁令にもかかわらず盛大におこなわれた。6月から準備がはじまり、7月は月内毎日、いずれかの地区で普度がなされた。各家では客を招き酒宴を催す。地区内では梨園戯、高甲戯、木偶戯、打城戯が競って演じられた。演戯が催されなければ見くだされた(陳垂成主編『泉州習俗』、福建人民出版社、2004年、10頁)。現代中国では、こうした民俗は迷信、陋習、浪費として規制されてきたため、一部の習俗としてのみ保持されているようである。
*33  以下はサイト「鹿港古風貌(図説)」掲載の文章(部分)である。http://www.keio-asia.org/documents/taiwan/lugang/
*34 葉大沛『鹿港発展史』、左羊出版社、1997年、457頁。
*35 漢宝徳主編『鹿港古風貌之研究』、鹿港文物維護及地方発展促進委員会、1978年、77頁。
*36 前引、葉大沛『鹿港発展史』、、450頁。
*37 陳仕賢『龍山聴唄・鹿港龍山寺』、鹿水文史工作室、2004年、33頁。
*38 前引、漢宝徳主編『鹿港古風貌之研究』、40、77頁。
*39  以下は2012年3月9日、龍山寺での聞書による。
*40 前引、陳仕賢『龍山聴唄・鹿港龍山寺』、78頁。
*41 泉州市文化局・泉州市新海路閩南文化保護中心編『泉州非物質文化遺産図典』、海峡文芸出版社、2007年、176頁。