鹿港古風貌(図説) (2)


   二 普度のある光景
 
 仏教以前に遡る普度の心意  普度(ふど)(pudu)は東方地中海地域の基層文化を支える重要な祭祀である。普度とは無祀孤魂を救済する仏教、道教などの法会を意味する。しかし、それだけではない。普度にはさまざまな心意が含まれている。それは、不幸な死、無残な死を見捨ててはならないという人びとの暗黙の了解の上に成り立つもので、おそらく仏教以前の民間の儺(殤*10yang,shang)に遡るものだろう。始源は今、さておくとして、そこには、また、孤魂をまつれば、サチがもたらされるという心意が含まれてくる。さらに、『盂蘭盆経』にもあるように、広く施しをすれば、「現在父母七世父母六種親属」を「三途之苦」から救うことができるとされる*11。これらの心意が分かちがたく結びついて、今日の普度行事がおこなわれる。
 普度歌  鹿港では日本統治期まで、旧7月の一ヵ月、各地で普度をおこなった。これは福建省泉州の民俗である。日ごとにどの地域で普度があるかを歌った普度歌が知られている。すなわち次のとおりである。

 初一放水灯*12、初二普王宮*13、初三米市街、初四文武廟、初五城隍廟、初六土城(塗城)、初七七娘媽生*14、初八新宮辺、初九興化媽祖宮口、初十港底、十一菜園、十二龍山寺、十三衙門、十四飫鬼埕、十五旧宮[天后宮]、十六東石、十七郭厝、十八営盤地、十九杉行街、二十後寮仔、二十一後車路、二十二船仔頭、二十三街尾、二十四宮後、二十五許厝埔、二十六牛墟頭、二十七安平鎮、二十八蚵仔寮、二十九通港普(泉州街)、三十日亀粿店*15、初一米粉寮(豬砧)、初二乞食寮、初三米粉寮、初四乞食吃無餚(siau)*16。  

  普度の進行  以上のうち、普度の骨子を知る上で不可欠な点を補っておく。すなわち7月1日は水陸の孤魂をよぶ。陸上のものは燈篙(灯を吊した竹竿)で、水上のものは水燈で招請する。またこの日、地蔵王廟では放庵[放閹]の儀をする。その際、まず「開鬼門」がある(後述)。これにより好兄弟(孤魂)が冥府から地上に現れる。彼らは、そのあと、まず大将爺廟(威霊廟)にいき、道士の教えを受ける。そうしてはじめて各所の供物を食べることができるようになるという*17。地蔵廟の放庵においては転蔵[車+藏]、焔口などがある(後述)。7月2日以降は鹿港の各地域で普度をおこなう。とりわけ15日は天后宮(旧宮。媽祖廟)で中元節を盛大におこなう(後述)。29日は「関鬼門」、つまり鬼門を閉じる日である。鹿港の家々ではこの日午後、一斉に普度をする(通港普)。また大将爺廟では収庵をして、好兄弟を収容する*18。
 上記のうち、地蔵王廟、大将爺廟、天后宮における2012 年の普度の様相を以下に記す。 地蔵王廟は鹿港市街の南に位置し、すぐ南側を福鹿渓が流れる。ここで盛大な放水燈の儀をおこなう(後述)。また大将爺廟は地蔵王廟から西北方、ほど近いところ菜園路にある。一方、天后宮は鹿港の中央通り(中山路)を北上したところ玉順里にある(地図参照)。
(鹿港寺廟地理位置図『鹿港寺廟大全』より)

鹿港寺廟地理位置図『鹿港寺廟大全』より

 

 

南部拡大図

   

  1. 地蔵王廟の中元祭典

  創建年代  清嘉慶20(1815)年(図版1)(図版2)
 祭神        地蔵王菩薩(図版3)。このほか、境主尊神、註生娘娘、十殿閻羅(十体)をまつる。
 在所    金門巷1号*19

 地蔵王廟では2003年から「中元普度祈安抜薦超度大法会」をおこなっている。2012年のばあい、次のように進行した。なお、前述したように、元来、この日の法事は1日の放庵に伴うものであった。それゆえ、より正確にいえば、以下のものは、鹿港地蔵王廟において近年はじめられた普度の光景といえる。

 7月13日、大士爺開光(図版4)。開鬼門(図版5)。竪燈篙(燈篙を立てること)(図版6)。午後、福鹿渓での放水燈(図版7)(図版8)。『梁皇宝懺』第一巻~第三巻。なお、鹿港の放水燈では、水辺までの練り歩きは簡素である(現今はクルマ使用)。台湾北部*20とは異なり、祝祭の雰囲気はない。あくまでも孤魂をよぶための祭儀という雰囲気があり、それは南部の放水燈の趣きと似ている。
 7月14日、『梁皇宝懺』第四巻~第八巻。
 7月15日、『梁皇宝懺』第八巻~第十巻。午後、瑜伽焔口、転蔵[車+藏](図版9)(図版10)(図版11)、変食(図版12)。回向。

  この法会は2010年から彰化の霊山寺から僧侶を招いておこなっている。それゆえ、仏教法会の趣が濃厚である。しかし、人びとにとって、法事が道教式か仏教式かはさほど重要ではない。多くの人びとは、好兄弟(無祀孤魂)への施しという趣旨に賛同し、廟を訪れ相応の寄付をする。そして地蔵の前で自身の家の先霊を供養し(図版13)、また現在の家族の「祈安消災長生禄位」を観音に祈る(図版14)。この供養と祈祷は一体不可分のもので、その間に軽重はない。廟にきた人たちはみな、こころから祈っていく(図版15)。
 転蔵[車+藏]  転蔵[車+藏]は「溺死、出血」による死、あるいは各種の非業の死を遂げた小鬼を血の池から救うためのものである*21。大きな蔵[車+藏]は三柱作られる。すなわち水蔵[車+藏]、主蔵[車+藏]、血蔵[車+藏]である(図版9参照)。転蔵は今日なお台湾各地でみられる。また福建省でもおこなわれている*22。なお祭場には、孤魂の拠り所として不可欠の同帰所、また歴代の文人の霊魂の拠り所である翰林院(寒林院)のほか、無祀孤魂を載せて西方にいく法船も置かれている(図版11参照)。
 ところで、地蔵王廟の壁に張り出された登記票の数は五千余り。実際に訪れた人たちはその何分の一であろうが、ひとつの廟でこれだけの数の参与者がいるのには驚く*23(図版16)。鹿港の各地域の普度は光復後、政府の指導もあり、7月15日に集約される傾向がある。しかし、2012年現在、初五城隍廟、初七七娘媽生、十二龍山寺、十五旧宮はなお、従来通りの日程で普度をおこなう。この伝承の根強さも注目される。
 普度公巡公宴ほか  鹿港の普度に関してはさらに、次のふたつの民俗も興味深い。第一は、鹿港北部の後寮仔でおこなわれる「普度公巡公宴」である。これは毎年、交代で爐主を決め、その家に一年間、普度公の神像を安置する(図版17)(図版18)。後寮仔の普度公は地蔵王菩薩と同じである(図版19)(図版20)。しかし、これを別のものとする伝承もある。たとえば富美宮のばあい、両者は別の神像で表現されている*24。後寮仔では、7月15日(以前は20日)の午後、道士が先導して銅鑼、帳簿持ちなどと連れだって家巡りをする。各家庭では、普度公の祭壇と孤魂の祭壇をそれぞれ別に用意する。道士は各々の祭壇の前で祈祷をする(図版21)(図版22)。2012年には、80軒ほどの家を訪れた*25。家巡りのあと、一行は今年の爐主の家に集まり、次年度の爐主を占いで決める。
 第二は、黄姓の人びとによる十二年に一度の盛大な普度である(鹿港埔錦十三普)。彼らの出身地は福建省泉州埔錦で、その多くは、鹿港北部の泉州街、南部の菜園に居住している。

 

 

 

図版1  地蔵王廟。左端の門は普段は閉じられている。7月、普度の際の開鬼門の儀ののちに開ける。
図版2  地蔵王廟では日ごろも参拝者がいる。また家庭の法事もしばしばみられる。
図版3  地蔵王菩薩。鹿港にはもうひとつ北部船仔頭に地蔵王をまつる清徳宮がある。これは従来爐主制によって廟を持たなかったが、1994年に建廟した。 
図版4  13日、午前10時ごろ、大士爺開光。右は土地公、左は山神。鹿港ではこの三体が孤魂を司る。
図版5  放庵または開鬼門。元来は7月の1日の祭儀である。閉門(収庵)は29日。
図版6  竪燈篙。主として陸上の孤魂を呼び寄せる。
図版7  福鹿渓上の祭壇。放水燈は13日午後5時過ぎにおこなわれる。
図版8  幾十もの水燈が流される。水上、水中の孤魂を将来するためのもの。
図版9   15日、午後5時過ぎ、焔口の途中で、転蔵[車+藏]をする。水陸の死者の救済。蔵[車+藏]は右から血蔵[車+藏]、主蔵[車+藏]、水蔵[車+藏]である。
図版10 転蔵[車+藏]後、これらは法船ともども焼却される。
図版11  孤魂を載せた法船。焼却場に向かう。
図版12  毘廬遮那帽を被り変食の儀をする円明師。彰化霊山寺の僧で、2010年から地蔵王廟の普度を担当している。
図版13  壁に張り出された登記票。個々の祈願内容は鹿港の人びとの信仰を反映する。「九玄七祖(歴代祖先)」「冤親債主*26」「地基主[地主神]」「動物霊、工作傷害蛇魂」「未命名嬰霊」など。
図版14  観音に長生禄位を祈願する。これは紅い紙に記名する。
図版15  燈篙の前にひざまずき、一家の祖霊と孤魂をよぶ。
図版16  地蔵王廟の外壁の前に並べられた孤魂のための供物。家々の供物が境内にも所狭しと並ぶ。外に並ぶ供物は持ち帰るが、境内のものは廟または養老院などの施設に施す。仏教式なので豚の供物などはない。

図版17  普度公は爐主の家の二階、神仏をまつる部屋に一年間、安置される。卓上の右端神龕のなかに置かれている。
図版18  普度公燈。
図版19  7月15日には一階の正面に普度公の祭壇を設ける。
図版20  神龕のなかの普度公。右手に錫杖を持ち、地蔵王の姿である。この日、家巡りをしたあと、爐主の家で次の年の爐主を占いで決める。
図版21  普度公の祭壇とは別に、孤魂のための祭壇も用意される。卓上にはせいぜいの御馳走、卓の下には沐浴用の水、手拭いも用意される。道士は二箇所の祭壇で祈念する。
図版22  訪問先では、家の主がまず普度公に線香をあげる。そのあと道士が代わって祈願する。各家の紅包(お布施)は主の名とともに記帳される。百元または二百元が相場である。

  2. 威霊廟の中元祭典

 創建年代  清康煕年間(1662~1722)(図版1)
 祭神    大将爺(大衆爺)(図版2)。ほかに謝将軍(大爺、七爺)(図版3)、范将軍(八爺)(図版4)、牛爺、馬爺、枷爺、鎖爺、七宮夫人、西門土地公*27夫妻(図版5)をまつる。
 在所   菜園路95号

 大衆爺(ダジョンイェ)は鬼王、厲鬼である。この祟りを避けるために建廟してまつった。大衆爺の誕生日は、通例、8月25日だが、威霊廟のばあいは5月27日である。実は、ここの大衆爺はもとは明朝の英雄劉綎大将軍(1558―1619)をまつったもので、大将爺(ダジャンイェ)が正しい。しかし、音の類似から、大衆爺(ダジョンイェ)としてまつっている。伝承によると、この廟の前は以前は大衆爺塚とされた。そのため今日に至るまで、右殿の前では、常々、人びとが晒骨し、骨を整えては金斗に入れたりする。小心者は夜更けに一人、ここを通ろうとはしなかったという*28。
  現在、威霊廟の普度は7月15日におこなう。基本的には地蔵王廟と同様である。起鼓、掛幡、大士爺その他の開光(図版6)、請神、瑞幡 (幡を降ろして、道士が幡に文字を記し、再度、幡を掛ける)(図版7)(図版8)、午敬 (獻敬)、誦經 (午後)、搭台 (午後4時前後) 、変食、 燒化などの順序である。
 ただし、地蔵王廟とは違って、この廟では、好兄弟を収める庵(閹)を作り、これをも掲げる。庵(閹)を掲げるのは元来は29日だが、現在は15日にまとめておこなう。庵は、行事の最後「燒化」の際に廟前で大士爺や寒林所(図版9)などとともに燃やす。威霊廟の普度は天后宮のそれと較べると見守る人も少ない。それはまさに、恐るべき好兄弟を収容して送り返すための儀礼のようであった。

 図版1  2006年当時の威霊廟。正面には「港底[地名]大将爺」と記されている。内部は相当に老朽化していた。現在新築中。神像は通りをはさんで反対側の仮宮に安置されている。
図版2  主神の大将爺は明朝の英雄劉綎大将軍。
図版3  謝将軍(七爺)ほかの将軍。
図版4  范将軍(八爺)ほかの将軍。
図版5  鹿港西門の土地公夫妻。
図版6 大士爺の開光。右は山神、左は土地公。
図版7  瑞幡。左の柱に庵(閹)がみられる。元来は月末29日に掲げて、ここに孤魂を収めた。
図版8  庵(閹)の下部には鬼門がえがかれている。
図版9 祭儀の終了後、寒林所、同帰所(いずれも孤魂のための拠り所)や大士爺などを焼却する。
図版10  廟の前の道路を閉鎖して大きく燃やす。夜、11時ごろ、まだ車は行き交うが、慣例なのでとくに支障もなさそうである。
図版11 威霊廟の普度に用いられた寒林所。通例、寒林所は文人の霊魂の拠り所とされるが、ここでは「当処界内有霊無祀男女孤幽魂衆」のための拠り所とされる。 

(南部拡大図)

  3. 天后宮の中元祭典  

 創建年代  1736年*29(図版1)(図版2)
 祭神  天上聖母(媽祖)(図版3)
 在所   中山路430号

   鹿港の天后宮は台湾でも名高く、その分霊をまつる廟は四百座を越える*30。しかし、鹿港で最も早く創建された媽祖廟は興安宮(シンアンゴン)(1684年)である(図版4)(図版5)。これと天后宮(旧祖宮)、さらに林爽文の乱後、1788年に創建された新祖宮(媽祖廟)(図版6)(図版7)が鹿港で最もよく知られた媽祖廟である。
  天后宮の最大の行事は3月23日の媽祖の聖誕慶祝行事である。そのほか年中、各地から進香団がきて、廟の内外を賑わしている(図版8)。一方、7月15日の普度は、道士による祭典の趣が濃い。午前中は道教の開始の儀礼、日中は『三元滅罪宝懺』『度人経』などの誦経がつづき、比較的、動きが少ない。晩には普度の核心行事である孤魂供養がおこなわれる。ここでは「登座化食」とよばれる。
 施宣熹道士(1972~)は儀礼の途中、五嶽冠(五帝冠)を被り救苦天尊になる。そして、壇上の供物を法を用いて無数に増やす(変食)(図版9)。そのあとで高いところから孤魂に対して食べ物を投げ与える。ただし、実際は、生きた人への施しとなる。飴、餅、銭、果物などが投じられると、人びとはその度に競って拾う(図版10)。個々の物それ自体はたいしたものではないが、大人も子供も相応に待ち望む。これは象徴的な饗宴というべきであろう。
  鹿港では、従来、地蔵王廟、大将爺廟、天后宮の三箇所で終日、盛大な法会をおこなった。また、7月の収庵に漏れた好兄弟のために、8月20日になお「拝散魂」の儀をおこなう。その際には家々では草人を準備し、巡行する王爺にそれを托す*31。こうした祭儀は今日も維持されている。なお、この「拝散魂」でもなお収容しきれなかった孤魂のためには、10月1日、城隍廟の神輿が巡行して孤魂を収める儀礼があった。「祭孤魂」というが、この祭儀は今日、途絶えた*32。

図版1 上からみた鹿港天后宮。
図版2  天后宮正面。
図版3  媽祖像。香煙により黒ずんでいるため黒媽祖とよばれる。
図版4  1684年創建の興安宮。鹿港最初の媽祖廟。元来、福建省興化(莆田)人のための廟としてあったが、近年では角頭(地域単位)廟と大差はない。
図版5  興安宮の媽祖。
図版6 1788年創建の新祖宮(媽祖廟)。台湾唯一の官幣勅建の媽祖廟。
図版7  新祖宮の媽祖。
図版8 台北県三重市慈心堂の進香団。天后宮には随時、こうした進香団が訪れる。2007年9月15日。
図版9  天后宮の普度。午敬科儀。神々に昼食を献上する。
図版10  天后宮内に並べられた孤魂への供物。
図版11  登座化食の儀(仏教の瑜伽焔口)。施宣熹道士は五嶽冠(五帝冠)を被り救苦天尊になる。
図版12 普度の核心は孤魂に食べ物を施すこと。そのときを待って近隣の人びとが集まってくる。
図版13  飴、餅、銭、果物などが投じられると、人びとはその度に競って拾う。道士による普施は投げる物を替えつつ40分以上かけて幾度もおこなわれる。

 小結―鹿港七月普度の意味

    鹿港の普度は福建、台湾の普度に遡る。その祭儀は直接には盂蘭盆会からきたものであろう。しかし、盂蘭盆以前に、夭折、不幸な死者の霊を供養することはあった。古代中国には禓という民間の儺があった。仏教と道教はそれを取り込んで普度を法会化した。けれども、不幸な霊魂の供養はもともと7月とは限らなかった。それゆえ、普度は大小の道教儀礼のなかで必ずおこなわれる。不幸な霊の供養はよほどたいせつなものとみられていたようである。それは中国、台湾の法事だけでなく、東方地中海周辺の巫俗のなかでもみられる。
 一般に近代化の進展のなかで、普度は忘れられていく。そんななか、鹿港の普度もかつてのように7月一ヵ月を祭儀の時間とすることはできなくなった。とはいえ、次の三点でなお、十分、特徴がみられる。

 第一、家庭の祖霊祭祀に劣らず、孤魂の祭祀を持ちつづけている。鹿港には現在、28の「百姓公」がある*33。その多くは今なお、手が加えられ、年末や7月には近隣住民によりまつられている(図版14)(図版15)。これは人びとが普度の元来の意味を忘れていないことを意味する。民間祭祀は、経典がないので、ともすると、仏教、道教の儀礼に収斂しかねない。こんななかで、百姓公を守りつづけているのは鹿港の大きな特徴とおもわれる。
 第二、地蔵、大衆爺といった冥府関連の菩薩、神将のほかに、媽祖(天上聖母)が均衡よくまつられている。これは7月の普度を通して冥界とこの世の双方に人びとが関心を注いでいることをよく示す。おそらく、この均衡は盂蘭盆が目連戯を伴って半ば世俗的におこなわれた宋代以来、みられたものなのだろう。仏教や道教の儀礼中心に進むならば、そうした均衡はありえない。
 第三、鹿港の普度は人びとの積極的な参与という点で出色のものである。次のものはこれをよく示している。
 1. 普度における普施の賑わい(壇上から撒かれた物を争って拾うこと)
 この賑わいは、孤魂供養の宗教儀礼としては異様かもしれない。文化行政などが介入すると、こうしたものは、俗っぽいとされ、抑制されてしまうだろう。あるいは「搶孤」(高みに置かれた孤魂への供物を競争して奪い取ること)のようなかたちで観光化されてしまう*34。しかし、鹿港の人びとはごく自然に孤魂への普度に参与する。そして、陰界の孤魂供養がこの世の長生、福録につながるということを信じているので、飴や餅を必死に拾う。こうした物を拾わなくなるとき、普度は変容する。そのとき普度は専門家の施す単なる儀礼(施餓鬼)となるだろう。
 2. 普度公巡公宴
 一年間、普度公を進んで神棚に安置する。これは近代人の生活環境から考えると、並大抵のことではない。鹿港でも唯一、後寮仔の人びとのあいだでだけ伝承されている。これを論文にまとめた陳一仁は「『巡公宴』に進んで参加する家は日ごとに少なくなり、何年かすると、ほかの角頭と同じように絶えるかもしれない」と書いた*35。しかし、今年の賛同者(80戸余り)を考えると、なおしばらくは維持されるだろう。ちなみに孤魂への施し物は夜、各家庭での宴に用いられる。
 3. 孤魂供養の奉納芸能  
 後寮仔のひとびとは拠金して孤魂供養の布袋戯を奉納した(図版16)。2012年7月の鹿港では、ほかには奉納芸能はなかったが、芸能の奉納は百姓公供養のより具体的な行為であり、貴重である。

 以上、第三点の「人びとの積極的な参与」の具体例を述べた。これは結局第一、第二の点とも連動している。こうした近隣住民の参与がなくなれば、僧、道士、その他宗教者による祭儀本位となっていく。国家の認める「伝統文化」「無形文化財」はそうした道を進んできた。ところが、鹿港の七月普度はそれを免れている。その意味は近代という時代が進むに連れ、いよいよ大きくなるだろう。しかし、われわれはその真の意味が何なのか、まだ十分知ることができないでいる。
 

図版14 鹿港北部東石里の百姓公。ふたつの小祠を併せてまつっている。ひとつの百姓公は7月16日が拝礼の日である。
図版15  菜園里の百姓公。この背後は鹿港小学校の校庭である。鹿港の街全体が孤魂の存在を認めている。
図版16  後寮仔住民の拠金による布袋戯。孤魂への奉納。奉天宮の前で7月15日の午後しばらく演じていた。紅紙に「普照陰光」「衆善信敬叩」と記されている。