2011年8月29日、韓国全南大学での講演要旨 野村伸一「呉越文化の広がりと朝鮮・日本文化」


はじめに

 東方地中海(東シナ海)地域は呉越文化で特色付けられる。春秋戦国時代の呉(ウ)、越(ユエ)は長江(揚子江)以南沿海部の覇者であった。呉は前473年、越に滅ぼされ、越は前334年、楚に滅ぼされた。しかし、以後も呉越は地域名として残った。呉越文化は稲作、漁撈、船と移動、花、蛇、龍の信仰、複葬、霊魂再生、無祀孤魂への畏怖(おそれ)と救済儀礼、巫俗、神話伝承、茶と陶器、さらに仏教と道教の隆盛などで知られる。それは朝鮮半島や日本の基層文化をも規定した。明清代、この海域には倭寇が往来した。彼らは呉越の海民のなかから現れた。

  1.  呉越の地               
  古代の呉国(都は蘇州)は長江以南、浙江省銭塘江以北、越国(都は会稽=紹興)は銭塘江以南に位置した。越は呉を滅ぼした。そして四六八年から九〇年ほど、山東半島南側の琅邪(ランイェ)に都を置いた(http://www.keio-asia.org/e-med/ 地図参照)。
 この間に、そしてまた越国滅亡後にも海を越えて多くの移民があったと考えられる。

  2. 呉越文化              
                                                                              
    1)稲作とその祭祀
 河姆渡遺跡の稲作。東方地中海地域の稲作は浙江省河姆渡(ハムドウ)遺跡(余姚(ユヤオ)市)の稲作を最初期のものとしてみるのが一般的である。それは今から7~5千年前にはじまる。
  ○嘗新(江南)、薦新(朝鮮半島)、新嘗(日本)   
 これらはいずれも共通した稲作儀礼である。
 この日、農家では肉、五穀飯を用意して五穀神、倉神、天地をまつる。そののち祖霊もまつる(蔡豊明主編『呉越文化的越海東伝与流布』)。
  全羅道(チョッラド)には特有の薦新(チョンシン)(収穫感謝儀礼)があった。当地では稲を収穫して稲株ごとまつる。これは全羅道に特有のもので、他地方にはみられない。名称は地域ごとに多様である。オルベシムニのほかに、オルゲシムニ(求禮(クレ))、オリシムニ(務安(ムアン)、咸平(ハムピョン))、シルミともいう。農民も漁民も例外なくまつる。
 なお、朝鮮半島ではこれとは別に壺、甕に新米を入れて神をまつる民俗も広くおこなわれる(図版1)。一般に祖先壺という。地域によって名称は異なる。ちなみに台湾の原住民のあいだでも壺をまつることがみられる。基層のところでつながるのかもしれない。

    ○年初の祈年、火の行事
 江南では年初に稲作とかかわる祈年(としごい)の祭祀、芸能が数多くなされる。なかでも元宵(ユエンシャオ)(正月十五日夜)は灯(ダン)と火の行事があり注目される。これらは朝鮮半島の年初の民俗とも関連する。灯には文灯(ウェンダン)(竹竿を立てること)と武灯(ウーダン)がある。武灯とは龍灯(龍形のものの舞)、獅子灯、馬灯、採茶灯などで、すべて芸能を伴う(姜彬主編『稲作文化与江南民俗』)。
   江南の元宵(ユエンシャオ)では火の行事が多彩におこなわれた。 正月十五日夜半、農家では稲藁を束ね、点灯して掲げ、田の間を走り回り寿詞を唱える。
 朝鮮半島の禾積(クァチョク)と野焼き   灯(ダン)と同様のものが朝鮮半島でもみられる(『東国歳時記』ほか)。 鼠の火(チゥイブル)。また、この火による野焼きをチゥイブル戯(ノリ)とよんだ。これは鼠や害虫駆除のためのもので、正月の風物詩でもあった。

    ○七月半(チーユエバン)の孤魂供養
 中国江南では七月十五日は斎半田頭(ジャイバンティエントウ)(斎田頭)といって田神をまつる。この日、田間の辻にいき、粉団(こめだんご)、鶏、黍、瓜、蔬(やさい)を供えて祝祷する(『清嘉録』)。七月はまた鬼月(グゥイユエ)(死者霊たちの月)という。そして七月半(チーユエバン)(十五日)には中元節(道教)、盂蘭盆会(仏教)として孤魂祭祀をする。呉越地域の農民にとって、この日は祖霊だけでなく孤魂野鬼を供養すべき日でもある。   
   密陽(ミリャン)の百中戯(ペクチュンノリ)その他  朝鮮半島でも日本でも、七月半ばは農事とのかかわりで祭祀がおこなわれる。
   蜡祭(臘祭)と儺儀
  古代中国の諸国では12月に蜡祭(ジャジ)をした。蜡は収穫を諸神に感謝し、国をあげて祝うものであった。江南でも伝承された。年末の蜡祭(ジャジ)は漢代には臘祭(ラジ)となった。臘祭では祖先祭祀もなされた。さらに臘は悪鬼を逐う儺儀(ヌオイー)とも密接にかかわる。年末の蜡、臘また儺は、のちには年初の祭祀にも引き継がれた。これは儺儀が儺の戯(あそび)となったことと関係がある。
 以上は朝鮮半島南部とも大いにかかわる。すなわち埋鬼、地神踏みである。古代新羅では十二月寅の日に八棤(=八蜡)をし、殺牛祭祀をした(『三国史記』巻32 )。石垣ではシチという。やはり牛を犠牲にした。シチ、シツは奄美(図版2)から琉球南部まで年の更新時の祭儀として広くおこなわれた。

    2)船と漁撈
  越人と船  浙江省河姆渡の遺物のなかに槳(かい)、陶船、独木舟がある。当時の越人は独木舟を漕いで海を渉り、海上で漁をし貝を採取したのだろう。
 古来、「胡人((北、西のひと))は馬、越人は舟を利用する」(『淮南子』)といわれた。また呉、越は海戦のために、大小さまざまな船を競って造った。呉の飛雲船の長さは「五十歩」[歩(ブ)は尺(チー)]であった。また越の戈船(かせん)(巡回船)には三百人が乗った。
 浙江省舟山群島では船を木龍(ムーロン)とみる。龍眼をえがき、龍霊を置く。また船の神をまつるときは米と魚を供える。これらは呉越の古風である(沖縄、奄美の船にも眼があった)。
 船霊信仰     蛇と木龍(図版3)が船霊とされる。  「海船中には必ず一蛇が有って、名を木龍という。舟船(ふね)が成る日には即ちこれが有る。平時には不可見(みられない)。また処(お)るところも不知(わからない)。若し木龍が去るのを見ると、則ち船は必敗(かならずそうなんする)」(郁永河『海上紀略』、野村伸一、『東シナ海祭祀芸能史論序説』第五章)と。この蛇(木龍)は平時(ふだん)は姿がみえない。まさに船霊(ふなだま)である。一方、船霊には女性の髪、持ち物、銅貨などを供える。これは日本や朝鮮だけでなく浙江省でも同じである。 
  五島 船霊様 航海安全と大漁を祈願 「女神といわれ造船の際に船大工が他人に見られないように、紙でつくった女人形とサイコロ二つ、それに穴のあいた銭十二文、女の髪の毛などをご神体として船内に入れる」 ほかに「笄、化粧、紅、針などの女の持ち物を入れることもある  」(平山徳一『五島史と民俗』、私家版、1989年、194頁)。
 海に浮く死体 ダサエンまたは寄り人 「この流れ仏を船に乗せると大漁になる」(同上、195-196頁) →龍の祭祀

    3)文身―龍と花の模様
  呉越は文身の地  呉の太伯は周王(夏后少康)の長男として生まれたが、荊蛮((なんぽうのひとびと))の地にいき文身((いれずみ))・断髪した。のち呉の太伯となった。倭人はその子孫を名乗った(『魏略』[三世紀成立]逸文)。呉の太伯と同様に越王勾践も文身をした。「勾践は禹の苗裔(こうえい)、夏后帝少康の庶子」である。そして、会稽にあって禹の祭祀をしつつ、「文身断髪し草莱(やぶち)を披(ひら)いて邑(まち)をつくった」(『史記』世家)。呉越は文身の盛んな地域であった。文身は『淮南子』原道訓によれば、鱗虫(高誘注、蛟龍)を象ったものである。しかし、また、それを鰐魚(わに)とすることもあり、さらに実質的には蛇とすることもある(姜彬主編『呉越民間信仰民俗』)。文身は東方地中海地域だけでなく、海南島から安南、雲南まで広くみられる。
 蛟龍の害を避ける  文様の目的は「蛟龍の害を避ける」(『漢書』地理志)ことにある。『三国志』「魏書」(所謂「魏志倭人伝」)によると、「今、倭の水人は好んで沈没して魚蛤を捕らえる。文身しまた以て大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(やや)以て飾(かざり)と為(す)る」という。
 花模様と花の崇拝  文身には花模様もある。呉越地域では植物に霊力をみいだし、これを諸種のかたちで表現した。
 花の崇拝はまた格別のものがある。湖南省に住む古越系少数民族は花を生命の象徴、霊魂の拠り所とし、模造の花樹(ファシュ)のもとで祭祀をする。花樹は人の誕生や死と密接にかかわっている。また、この世の花は花山(ファシャン)の女神が司る。人は花山から花のかたちで人里に送られる。死とは花が散ることである。散花(サンファ)ののち、人の霊はもとの花山に帰る。
 生命の花園に関する信仰は済州島(チェジュド)にもあり、ここでは西天花畑(ソッチョンコッパッ)という。神房(シンバン)(巫覡)はそこから生命の花(椿で象徴)を取ってきて人びとに授ける。これは仏道婆さん(プルトハルマン)(生育の神)を迎える儀礼(仏道迎え(プルトマジ))のなかでおこなわれる。 

    4)蛇崇拝                                                            
  呉越の人びとは日常的に蛇と接していた。江蘇省太倉(タイツァン)の人びとは蛇との同床を厭わなかった。蛇と同床すると「清心明目」にして、でき物が生じない。皮膚病がよく治るとされた。太倉では疫病、天災、人災に遭遇すると、土地廟や蛇神廟で召蛇祭祀をした。すなわち蛇神(生きた小蛇)を招き神威を示してもらう。
 新羅景文大王の寝殿には日が暮れると、きまって無数の蛇が集まった。宮人が驚き追いやろうとすると、王は「わたしは蛇がいないと安寝(あんみん)できない。禁じるな」といった。毎寝(ねるたびごとに)、蛇が舌を吐き、満胸(むねじゅう)を舗(おお)った(『三国遺事』巻第二紀異)。また、後百済の始祖甄萱(キョンフォン)は蚯蚓(チロンイ)(夜の来訪者)と人間の母との子である(同上)。朝鮮の説話では夜来者は龍が多いことから、この蚯蚓(チロンイ)は龍または蛇類とみてよい。朝鮮の民間では近代に到るまで、青大将(クロンイ)をオプとして尊んだ。また済州島は蛇神のポンプリとその祭祀で名高い。一方、日本でも蛇との繋がりは深い。三輪山型伝説は周知だが、また蛇は家にサチをもたらすという。米倉の蛇は福虫といって尊んだ。さらに奄美大島の祝女はハブと親しみこれを自在に遣った。沖縄では到るところ蛇神がまつられた。その最も尊い神は君真物(きんまもん)という(17世紀、袋中『琉球神道記』巻第五参照)。

    5)龍信仰―蛇の姿態変容(メタモルフォーゼ)
 呉越地区の龍信仰は農民と漁民いずれにもみられる。呉越の農民は主として雨を祈り、漁民は海上の平穏、豊漁を祈る。浙江省奉化(フォンファ)の龍民俗の調査報告によると、「龍」の実態は岩蛇、水蛇、青蛇、王猛蛇、蚯蚓(みみず)、蟹、蛙、鰻、鯉、四脚蛇(とかげ)などである(姜彬主編『呉越民間信仰民俗』)。
  海神から龍王へ  古代中国では海域の神を海神とよんだ。 一方、「龍王」は漢から唐までの長期間のうちに形成されたとみられる。一般に龍王は厳めしい様相の神とみられている。それには唐代以降の国家祭祀の影響もあるだろう。一方、この間、仏教が龍神を護法神として取り込んだ。
  朝鮮半島の巫神図(ムシント)には厳めしい龍王(ヨンワン)がみられる(図版4)。また朝鮮南部・済州島の龍王(ヨンワン)(龍王(ヨワン))(図版5)や琉球の龍宮神には魚や海産物だけでなく、水死者の霊魂を管掌する一面がみられる。これらは仏教の龍衆とも通じるだろう。

    6)複葬―二度の埋葬
  浙江省島嶼部では大往生のときは複葬をしない。そのときは哭喪(哭き儀礼)、停尸(臨終儀礼)などを経て埋葬する。ところが、海難事故などによる不慮の死のときは棺を作り、墓場に置き稲藁(いなわら)をかぶせる。こうして風雨に曝されることを避ける。これを草挟墳(ツァオジャフン)あるいは草挟(ツァオジャ)棺材(グァンツァイ)という。後日、余裕が生じたら改めて墳墓を造り、棺を埋める。
 宮古島では他郷での死、幼若者の死など、異常死に限って洗骨(複葬)をし、その他は洗骨をしなかった。異常死のばあい、霊は他郷で、あるいは家の周囲で浮遊する。そうした浮遊霊は最も忌むべきものである。洗骨はこの忌むべき霊の出現を防ぐ儀礼である。つまり洗骨は、同時に霊魂の浄化に通じるものであろう。
  これらは朝鮮半島の草墳(チョブン)(図版6)と同じ系譜のものであろう。複葬は対馬(図版7)、五島列島から琉球にかけておこなわれる。

    7)飛翔する霊魂
  呉越の人びとは霊魂は鳥となって飛翔するとみた。炎帝の少女(むすめ)で女娃(ニュワ)は東海に遊び、溺れて反(かえ)らなかった。そこで精衛という鳥となり、常に西山の木石を銜(ふく)み、東海を湮(う)めようとしている(『山海経』第三北山経)。
  琉球では白鳥(しらとや)(海鳥)がおなり神(姉妹の生御魂)の象徴である。それはおもろに歌われる。「御船(おね)の高艫(たかとも)に 白鳥(しらとや)の居ちよん((とまっている)) 白鳥やあらぬ((ではない)) おみなりおすじ(姉妹の生御魂だ)」。
 死者の魂は鳥や蝶に変身する。それは韓国巫俗では今なおみられる。

    8)地獄と救済―無祀孤魂への懼れ
  呉越文化では地獄とそこからの救済は重要な主題である。根柢には無祀孤魂への畏れがある。『礼記』郊特牲にいう郷人の禓(シャン)(shangまたはyang)は横死者のための祭祀である。
  一方で盂蘭盆会と水陸会が人びとの堕獄への畏れを除く法会としてなされた。これは中国南朝梁(502-557年)ではじまり、途切れることなく今日に到った。目連救母譚は唐代の俗講で広く語られ、北宋代までには目連戯(ムーリェンシ)が成立する。それは寺廟内外の祭祀芸能として継続し各地に流布した。
  道教儀礼功徳(ゴンダ)では冥府の十王のもとで責め苛(さいな)まれる男女のさまが図示される(図版8)。冥府のさまは仏教、道教において一千年来、説かれてきた(図版9)(図版10)。朝鮮半島では寺院の冥府殿、十王殿の壁に冥府がえがかれる。ちなみに諸地獄のうち、女性を最も懼(おそ)れさせたのは血盆(血湖)地獄である。これは日本に伝わった。だが、朝鮮半島では説かれなかった。

    9)巫の祭祀
 巫舞は呉越の地を原郷とする。呉越は信巫覡の地(みこをしんじるところ)であった。 後漢『越絶書』巻第八によると、越王勾践(前五世紀)は、越の神巫無杜(ウドゥ)の子孫が死んだとき、これを「江東中[長江下流])」に葬った。それにより呉人の船を転覆させようとしたのである。この記事は巫が戦で重要な役割をはたしたことを示す。また『史記』封禅書(ほうぜんしょ)には漢代の越巫の記事がある。元封2(前109)年、越人勇之が「越の俗では鬼を信じ、その祠では皆、鬼を見て往々にして効(しるし)が有る」という。これを聞いた武帝は越巫に越の祝祠(やしろ)を作らせ、天神、上帝、百鬼を祠(まつ)り、鶏朴(とりうらない)をさせた。武帝はこれを信じ、越祠の鶏朴が用いられるにいたった。
  巫女は多くの地域において男にとって代わられた。今日、済州島神房の巫舞はかつての東シナ海地域のかつての巫女舞の一面をよく伝えているであろう(図版11)(図版12)。なお台湾では近年女性童乩の活躍がみられる(図版13)。

   10)東方地中海地域の海神伝承
  東方地中海地域の海神は、蛇、蛟龍、龍、龍王、龍宮、海の女神(観音、媽祖(マズ)<マチョウ 台湾語>等)など、多様な表れ方をする。その海神伝承は龍の系譜と海の女神の系譜に大別される。龍の系譜は王権、王室と結びついた。一方、海の女神伝承は、中国普陀山(プトゥオシャン)の観音、媽祖、古代日本の宗像女神を除くと、王室との結びつきはあまり顕著ではない。しかし、それは海民の信仰としては存在しつづけた。
 東方地中海の海神に関する最古の記述は『山海経』第十四大荒東経にみられる。そこでは「東海の渚[砂州]中に神がある。人面鳥身にして、両((にひきの))黄蛇を珥(みみわ)とし、両黄蛇を践む。名づけて禺虢(ぐうかく)という。黄帝は禺虢を生み…禺虢は東海に処(す)んだ。是は海神だ」とある。最初の海神は蛇を耳輪にし、踏みつける。蛇を従える神である。
 一方、中華民族の皇帝たちは龍の化身として語り継がれてきた。これは朝鮮や日本の王室も同様である。新羅の文武王(7世紀後半)は死後、護国の龍神となった。遺跡文武大王陵(ムンムデワンヌン)は今日なお慶州の東側の海岸に存在する(『三国遺事』紀異第二)(図版14)。神武天皇の母タマヨリヒメや伯母トヨタマヒメは海神ワタツミノカミのむすめである。トヨタマヒメは大きな鰐魚(がくぎょ)(わに)とみられていた(『古事記』、『日本書紀』一書)。

    11)朝鮮中宗時代の呉越認識
  一六世紀前半の朝鮮知識人は呉越を国の租税の出所、つまり統治の要とみた。『中宗実録』20(1525)年10月の朝講の席で黄海道知事洪彦弼はいった。「(蘇州、松州の地は)今の江南です。中国の賦税(そぜい)は皆、此(ここ)から出ます。わが国も黄海、全羅道が豊稔(ほうねん)であれば、都内(みやこ)の民は得頼以生(いきていけます)。また中国の江南は古(いにしえ)に呉太伯の所居之地(すんだところ)です。三代[夏、殷、周]以前、そこは中国と不通でした。しかし、漢、唐以後、中国は江南の賦税を頼りにしました。これは天気[天の機運]が北から南に移ったのではないでしょうか」と。

  3. 呉越文化の広がり            

    1) 山東半島と徐福東渡
  琅邪からの船出   『史記』始皇本紀第六によると、秦の始皇帝は28(前219)年、琅邪山にいき、秦の頌徳碑を建てた。そのとき、斉人徐芾(じょふつ)(徐福)がきて、「海中に蓬莱、方丈、瀛州の三神山がある」といい、そこには僊人(せんにん)が住んでいるので、童男童女を連れて僊人を探したいという。そこで皇帝は徐芾を遣わし僊人を探させた。しかし、結果はおもわしくなかった。『史記』にはこのほか三箇所に記事がある。
 徐福、帰らず  最後の記事「淮南・衡山列伝」によると、徐福は帰ってきて偽りの報告をした。すなわち、「海中で大神」に見(まみ)え、「東南の蓬莱山」に案内された。そこで「銅色にして龍形」の使者に会った。その海神に再拝して何を献上したらよいかと尋ねると、令名男子若振女((いいところの少年少女))と百工(各種の職人)を献上すれば、望みがかなうという。これを聞いて始皇帝は大いに喜び「男女三千人」と五穀の種、百工を帯同させた。しかし、徐福は平原広澤[湿地]を得て、止王不来(おうとしてとどまりきたらず)、つまり王となり帰らなかった。百姓(ひとびと)は悲痛し相思し、乱を為(な)そうとする者が十家のうち六にものぼった。
  海民伝承の意味  第四の記事は海民の伝承であろう。そこには次のことが読み取れる。第一に、蓬莱山と海の大神、とくに龍形の海神が畏敬の念をもって語られている。第二に、ここでの徐福には方士(神仙術の人)というよりは東海を自在に往来する海民の統率者の趣がある。第三に、東南方の蓬莱山が語られ、そこに上陸したとされる。これは山東から東南の方角にある島を念頭に置いた渡海移民伝承である。第四に、「そこで百姓(ひとびと)は悲痛し相思し,乱を為(な)そうとする者が十家のうち六にものぼった」という末尾の文は秦末の民乱を示唆する。
 徐福に倣った無数の海民が徐福伝説を持って渡海したと考えられる。

  2)他界観―海の彼方の国への想い
  水辺の聖地と魂の故郷  おそらく海民たちは魂の故郷を忘れなかっただろう。それが東方地中海地域における海上他界観念を生んだ。山東半島は越民にとっては船で乗り付けた島のようなものである。そこには古来、信仰の根拠地がいくつかあった。琅邪(ランイェ)はその代表だが、成山(チャンシャン)、之罘山(ジフシャン)もひとつの聖地であったとみられる(伊藤清司「呉越文化の流れ」)。これは越民にとっては来し方(南方)を偲ぶ拠点であっただろう。そして、彼らが朝鮮半島にいけば、そこでもまた南方を魂の故郷とする観念が生じる。実際、それは南(ナム)朝(チョ)鮮(ソン)信仰というかたちで伝承された。この視点で沖縄のニライカナイや日本古代の常世観をみることはすでに伊藤清司によってなされた。
  竹富島の西海岸にニーランという霊地がある。南の彼方から豊年(稲、粟の穀物の種)を積んだ船が着くところという(宮良賢貞、263頁)。
 南の理想郷とそこからの来訪者  許筠(ホギュン)(1569―1617)『洪吉童伝(ホンギルトンジョン)』(一七世紀初)は、洪吉童が海の彼方の硉(ユル)島(ド)国(グゥク)にいき理想郷を作ったという小説である。
 崔南善は『朝鮮常識問答』(1946年)「信仰」のなかで「南朝鮮」について次のように述べた。中国の華胥国[黄帝が夢中にみた国]、蓬莱島、インドの喜見城、道教の上清玉京、仏教の安養浄土、キリスト教の天堂などはいずれも理想社会を表現したものである。朝鮮では近世に至って、これを『鄭鑑録(チョンガムノク)』のなかで記すようになった。朴燕巌(パクヨンアム)(朴趾源(ジウォン)、1737―1805)が『許生伝(ホセンジョン)』で許生をして、長崎と廈門の間の無人島を開拓し、もめ事もなく食も満ち足りた社会を作らせたのも「南朝鮮の一表象」である。こうした南方の国からは真人が現れて疲弊した国土を救済すると考えられもした。
 琉球でも海の彼方から神や尊貴な者が現れる。『琉球神道記』、『琉球由来記』によると、国頭の辺戸(へど)や今帰仁(なきじん)には年の更新時に新神(あらかみ)が現れた。これは北の方、海を越えてくる神で、君真物(きんまもん)、君手摩(きみてずり)などとよばれた。現れるや、歓待され王宮を訪れて帰っていく。この神は『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』ではカナイノキンマモンとよばれる。海神(蛇神)で、国や国王を祝福する。また同書には荒神(あらかみ)という海神もみられる。それは世が澆季(すえのよ)に及び、不仁乱逆の者が現れると出現する。
    船送りの民俗
  江南はじめ、この海域には無縁の死霊は供養して龍王のもとに送ればサチをもたらすという観念がある。疫神を船とともに流すことは中国江南の沿海部では広くみられた。台湾では流れ来た王爺(オンヤ)(瘟神(えきびょうのかみ))は地域住民の安寧を管掌する神となり、各所でまつられた。その王爺は天からの使者とされ(代天巡狩)歓待される。そして、供物とともに船に乗せられ、送り返される(王船(オンチュン)送り)。
  朝鮮の西南島嶼部(黒山島(フクサンド)、莞島(ワンド)、蝟島(ウィド)等)でも龍王(ヨンワン)への祈願(潟祭(ケッチェ))ののちに船を流す。済州島では龍王(ヨワン)だけでなく、厄病神(ヨンガム)送りにも船を流す。ちなみに全羅道、済州島の漁村では海辺にトッケビ(人または火(プル))が現れるが、これと出逢ったら告祀をする。そうすれば豊漁となるが、怠れば命にかかわるという(金ジョンデ「漁業と説話」。黄海道でも埠頭(タリッパル)に集(すだ)くトッケビ供養が豊漁を約束する<金錦花『金錦花の巫歌集』中の船上(ペ)迎神(ヨンシン)クッ>)。

  3)南朝の仏教と朝鮮半島、日本への伝来
 梁と百済  六世紀前半、百済は南朝の梁に遣使し、仏典その他の文物を授かった(図版15)。また百済僧発正(パルチョン)は天監年間(502―509)に中国にいき、在梁30年後に帰国するが、その途次、越州界山(ユエジョウジエシャン)(寧波、舟山。おそらくは普陀山)で観音菩薩の霊験を見聞した。その霊験譚は同時代に(6、7世紀ごろか)記述された(牧田諦亮『六朝古逸観世音応験記の硏究』参照)。
 普陀山の観音    普陀山は浙江省天竺寺(ティエンジュース)と並んで観音信仰の中心地となった(図版16)。今日普陀山は中国国内だけでなく、台湾、香港、韓国、日本からも参拝客が訪れる。浙江海洋学院の柳和勇氏によると、その数は年に3百万を超えるという(2008年談話)
 辺山(ビョンサン)半島と蝟島  百済の故地のうち黄海に面した全羅北道扶安(ブアン)郡辺山(ビョンサン)半島は東方地中海を往来する船にとって要衝の地であった。とくに格浦(キョッポ)里竹幕洞(チュンマクドン)には海神水聖堂婆さん(スソンダンハルミ)がいて、古来、船乗り、漁民の安全を司った。この神は洞窟から現れる。また巨女で、観音の姿に通じる。ここには四世紀から朝鮮朝に至るまでの祭祀遺跡がある。そこでは海上安全の祈願がなされたとみられる。また辺山半島の来蘇寺には白衣観音が安置されている。さらに格浦に向かい合う蝟島(ウィド)の圓堂(ウォンダン)(一般には元堂(ウォンダン)、願堂(ウォンダン))にも巫俗神化した白衣観音(元堂婦人霊大神(ウォンダンマヌラ))がまつられる。そこでは毎年正月三日に海上安全祈願の圓堂祭(ウォンダンジェ)がなされる(宋華燮(ソンファソプ)「中国普陀島と韓国辺山半島の観音信仰比較」)。以上の地理、歴史を踏まえると、観音信仰は六世紀にはすでに百済の地に伝承されていたといえよう。

  4)陶磁器、茶、絹織物の東伝
 呉越地区では先秦時代から青磁を用いた。漢代以降も呉越の陶磁器は発展しつづけた。南北朝から五代、北宋にかけては越窯、長沙窯、両宋から元にかけては龍泉窯、南宋官窯、建窯が知られる。また、明清代に名を博した景徳鎮の白磁も開始は宋元のころである。これらが絹織物や茶とともに海商により朝鮮、日本に運ばれた。
    張保皐と在唐新羅人
  朝鮮半島に陶磁器をもたらしたのは張保皐に代表される在唐新羅人である。張保皐の拠点地域のひとつ康津(カンジン)の窯跡からは越窯の陶磁器と似た陶器が出土する。張保皐は陶器の製法をも将来したとみられる。これは高麗青磁の下地になった可能性もある(姜鳳龍(カンボンニョン)『海に刻まれた韓国史』)。

  5) 鮓(しおから)の広がり
  鮓は中国、朝鮮ではzhaと発音される。鮓は塩や糟で漬けた魚を意味する。江南ではこれを飯に入れた盤游飯(パンヨウファン)を好んで食べた。魚は塩漬けにしておくと発酵し、塩辛となる。魚肉を塩漬けにして保存し、発酵食品として味わうことは江南に由来するとみられる。そして、これが朝鮮半島に伝わり、豊かな塩辛文化を育んだ。日本にも伝わり、ナレズシ、そして、今日一般にいう鮓(すし)となった。これらは海民の文化が育んだものである。
  朝鮮の宮廷では葦魚の「沈醢(しおづけ)」を好んだ。『世宗実録』11(1429) 年 7月には、北京に進献する「海味等」がみらる。そこには品目と数量が記される。その種類が実に多い。真魚(ひら)、民魚(にべ)、沙魚(さめ)、芒魚(サバ科)、洪魚(がんぎえい)、蘆魚(すずき)、鯉魚(こい)、秀魚(ぼら)、文魚(みずだこ)、石首魚(いしもち)、靑魚(にしん)、蘇魚(ます)、鯽魚(たい)、鰒魚(ふぐ)、大蝦(こうらいえび)、黃魚鮓(うぐいのしおから)、鯉魚鮓(こいのしおから)、土花(すみのえがき)鮓、石花(かき)〔鮓〕、 生蛤鮓、蘇魚鮓、白蝦鮓、紫蝦鮓、石首魚子鮓、紅蛤鮓、早海菜(はやわかめ)、海菜(わかめ)、絲海菜[ひじき?]、海菜耳、昆布、海衣(のり)、甘苔(かじめ)、海花である。王室ではこれだけの種類の海産物を進上することができた。それは朝鮮の海辺の人びとが常日頃、海の幸に十分なじんでいたことを意味する。

  6)女性優位の伝統とその広がり
  女性の生活力と社会的な地位  古来、東方地中海地域の女性はよく働いた。漁村の女はかつて船にも乗った。福建南部の蟳浦(シュンプ)の女性は海産物を携え泉州市内に行商にいった(図版17)(図版18)(図版19)。この地域では男の妻問い婚が基本であった。実家に住む女の地位は低くはなかった。宋代の福建の女たちは田畑で、また市場で顔をさらして逞しく生きた。牙儈(なかがい)をし、男を指図した。琉球の「男逸女労」、済州島(チェジュド)海女(ヘニョ)(潜嫂(チャムス))の旺盛な生活力は名高い。
 あそび、戦い、神仏への傾斜  一方、女たちはよくあそび、また、ときには戦の魁として戦った。琉球にはその種の伝承がある。また女性たちは死者霊を偲び、神仏に惜しげなく財を注ぎ、お上からは咎められた。根柢には観音をはじめとした女神への信仰がある。
  長住娘家  福建省泉州東部沿岸部の恵東(フイドン)では、結婚後、三日すると新婦は娘家(じっか)に戻る。その後一、二度これをくり返すが、やがて実家にそのまま留まる(長住娘家)。この間、春節(きゅうしょうがつ)、元宵(じょうげんのよる)、清明(チンミン)(春分後一五日目)、普度(プドゥ)(七月の祖霊・孤魂供養)、冬至、農繁期を除くと、嫁ぎ先にはいかない。一般に子供がいないうちは妻は夫の家には住めない。そこで、新婦はなるべく夫と同寝しないようにする(石奕龍「長住娘家と不落夫家の比較」)。
 不落夫家   不落夫家のばあい、新婦は結婚後、老年または死ぬまで夫の家に住まない。
  これらは妻方居住から嫁入りへの移行という大きな流れのなかの一形態であろう。朝鮮半島の妻方居住(率婿婚(テリルサウィ))、対馬、五島の婚姻はこの流れの上で理解すべきものである。

  女性首長の民間伝承
  古代越系の住民の間には女性を首長とする社会が多かった。卑弥呼の邪馬台国もそのひとつである。福建、台湾、東南アジア華人社会には清代の小説『楊文広平閩十八洞』(最初期の刊本、光緒18<1892>年)が流布する。そこには宋将楊文広に対抗する娘子媽(ニャンズマ)がいる。娘子媽金精娘娘(ジンジンニャンニャン)は娘子寨(ニャンズジャイ)(要塞、洞窟)の主(あるじ)である。娘子媽は閩南では信奉されていた。漳浦(ジャンプ)県娘子寨(村名)には娘子媽の小祠が現存する。また莆田(プティエン)埭頭(ダイトウ)石城(シーチャン)には金貞娘子(ジンジャンニャンズ)がいて楊文広(ヤンウェングァン)と戦ったという(サイト王文径「《楊文広平閩十八洞》史迹研究」)。
  小説では彼女らは動物の精霊とされる。性は淫(みだら)、敵将と結婚したがり、それが徒(あだ)となり平定される。この叙述は漢族の勝利の合理化である。実際には女性首長を戴く在地集団畲族(シャズ)[越系一族]の同化があったとみられる。彼らは蛇や蚯蚓(みみず)、蜈蚣(むかで)などと密接な関係を持つ先住民(閩人)であった。小説中の十八洞の一部は地名として実在する。ちなみに彼らは唐初に平定された(小説中の楊文広は唐代陳元光の脚色である)。また上記小説には畬族の招贅婚(むことり)などの民俗が色濃く反映されている(李亦園「章回小説《平閩十八洞》的民族学研究」)。

  4.  まとめ

 東方地中海地域の歴史にはまだ知られていないことがたくさんある。
 たとえば、かつて全羅道南部には「南蛮、忱彌多禮(とむたれ)(침미다례)」という国があった。大和朝廷がこれを「屠(さつりく)」し、百済に与えた(『日本書紀』神功皇后摂政49年)。4世紀ごろのことで、史実としては信じがたいところもあるが、南蛮とされた国があったことは確かであろう。日本では忱彌多禮は耽羅、済州島のこととするが、韓国では異説もある。それが済州島であれ、全羅南道のどこかであれ、問題は南蛮とか屠という表現で、これはその地の人をまともにはみていなかったことを意味する。残念ながら、通常の歴史教育ではこうしたことを素通りする。そして、その上に百済と大和朝廷の交流、さらに新羅による統一などを述べていく。しかし、そうした歴史には限界がある。そのもとでは埋もれてしまった地域の歴史は一向にみえてこない。ここでいう「南蛮」は東シナ海周辺地域の人びとを広く含んでいたとおもわれる。そこには原全羅道人はもちろん、越人も倭人もいたに違いない。
 われわれの現在の文化と社会はどういう歴史を経てきたのか、これは、東方地中海地域の基層(根柢)からみていかなければならない。さもなければ、わたしたちは絶えず不確かで、動揺するほかはない。