第2回-(1) (日本語訳)南台湾霊宝道壇の道法と閩南信仰習俗との関係についての研究 ―正一経籙、牽車藏喪俗および和瘟送船を例として―(2012/9/29)


国立台湾師範大学国文系教授 謝聡輝撰 〔日本語訳:関西大学非常勤講師 山田明広)

 

要旨

 

一、道教の道壇内部における正一経の伝授を例として

 

 今日の台湾道教の伝統ある伝度奏職儀礼に対して行った調査と道壇内で保存されている古い写本とが示すところによれば、内部で伝承されている『天壇玉格』といった類の資料を用いて、太上三五都功(あるいは上級の職位の正一盟威、三洞五雷)といった道職を授与するということが依然として行われているようであるが、しかし、決して実質に見合うだけ揃った正一経籙が完全な形で伝授されているわけではなく、その他の道教文書あるいは三元閭山法籙の公牒が代替として採用されもしているのである。このことは、決して、台湾に正一経籙が流伝しなかったということを表しているのではない。というのも、丁煌教授の論文により披露された第六十三代張天師の『正一大黄預修延寿経籙』という貴重な資料以外に、筆者が把握するところでは、白玉荷(1798~?)の『清微霊宝神霄補職玉格与大全』、鳳山道の翁家とその道法の伝承に関連する道壇、および高雄湖街底黄家道壇においても正一道籙が填籙〔籙に開光を施す〕、封籙〔籙を封書に入れ封する〕、安籙〔籙を安置する〕および繳籙〔籙を返還する〕などといった関連の写本や文検の中に保存されているのが見られるからである。いかなる理由により台湾の清初以来の正一伝度奏職儀式にこのような変革がもたらされたのであろうか。その原因はおそらく極めて複雑多元であろうが、もしかすると乾隆四年(1739)三月に下された「道官(思うに、龍虎山の提点司という道官を指すのであろう)が法員を派遣してひそかに各省へと行かせて道士を選抜させること、および道壇を開かせて伝度授籙させることを禁止する。この禁を犯した者は、違禁例に従って処罰する」という禁令に加えて、正一経籙の資料と関連する科儀の写本が失われてしまって続けて伝授していくことができなくなったために、「代香遠叩〔張天師の代わりに授籙を行う者が張天師の代わりであることを示す香火を用いて遠く龍虎山の祖天師や神々を額づき請来する〕」という方式を採用しただけでなく、経籙もまた当然情勢に応じて調整しなければならなかったのかもしれない。原因についてのこれらの推論は、いずれも、福建道教と台湾道教との間の伝承関係史に対する継続的な調査を構築することと新資料による証拠が現れることが待たれる。

 

 幸いなことに、筆者の現地調査によれば、泉州北部の梅山、羅東、九都、洪梅、洪瀬、康美および泉州市洛江区羅渓・馬甲諸鎮の道壇では、依然として第六十二代張天師が授与した三五都功経籙の文牒、券、憑一式が保存されており、しかも、実際に伝統にもとづいて伝度授籙を行い続けているようである。さらに貴いことには、有識の道長が継続して収集および伝承しているため、正一経籙のみならず、他の関連する伝授における請籙、填籙、封籙、授籙、安籙および繳籙といった秘伝の知識系統も保存されており、いずれも次第に秘密が明らかにされ、かつ深く掘り下げて研究されつつある。したがって、南安、江西および天師府の経籙資料と関連する科儀の写本にもとづいて台湾で発見された正一経籙をさらに一歩進んで今一度識別し、分類し、比較すると、台湾の正一経籙資料を改めて明らかにし、位置づけることができるであろうし、また閩南道教史の欠落部分を補うこともできるであろう。例えば、翁家がずっと保存してきた『安籙附安石獅全科』とその名が記されている伝度科儀の写本について、それに付け加えられている「意文」の中から「福建泉州府南安県」という地名が現れ出てきたが、このことと第五十五代張天師の時には「代香遠叩」によって正一経籙を伝授していたという習俗とは、少なくとも第五十五代張天師の時には南安では依然として上級の職位としての正一盟威経籙が存在していたということを示している。また、廈門の白玉荷が書き写し、台南の曾演教が1848年に再び伝え、阿公店街(現在の高雄岡山)の弟子・呉玉典が再度書き写した『清微霊宝神霄補職玉格与大全』の中に「附抄南安坑口歐士宗道友賣籙張思 德老文檢中六十甲子配一百二十靖一百二十壇配定〔附して南安坑口の歐士宗道友の賣りし籙の張思老・張德老文檢中の六十甲子を抄し配一百二十靖一百二十壇に配して配定めしむ〕」という資料が存在するが、この中に見られる南安碼頭鎮坑内村坑口の「賣籙」という記載によって、白玉荷が書き写した道法の所在という資料が公に明らかになったほか、さらに明初から存在した福建の売籙という伝統が清末から民国初期に至るまでの南安清風里十三都深垵水閣(1945年に深垵と金嶺の二つの郷は合併して金淘鎮となる)には依然として売籙が存在していたという伝説へと繋がりもした。このほか、南安で伝承されている全揃いの封籙の写本と高雄の翁家の道壇で伝承されている六つの「進職盟威職籙」という牒文とを比較すると、経籙の名称であろうと天に昇り参詣する所の神宮・真君であろうと所属の仙曹の役所であろうと、いずれも十分に一致していると実証することができるので、これらはその淵源を共通としているか、さもなくば実際に伝承関係にあると論断することが可能である。

 

 

二、家族的な抜度斎儀における牽車藏喪俗を例として

 

 道教は、移民によって台湾へと伝えられるに伴い、現地化という特色を形成するとともに、一方で昔からの閩〔福建〕・粤〔広東〕正一派の火居〔在家〕道法の伝統を依然として強靭なまでに伝承するということを明末清初以来絶え間なく続けてきた。また、その保存および伝承は欠けるところが無く、いまだ大規模な制限や破壊を経たことがないため、これまで関連研究を行っている学者から重視されてきたとともに、道教の道壇と科儀の歴史における「生きた伝統」であると公認されてもいる。その中でも「牽車藏」という文化習俗は、一つの非常に具体的な例証である。中国大陸福建地域において伝承されてきた牽車藏という喪俗は、先人が台湾へと移住してきた後も、泉州移民によりなおも伝統的喪礼の中で保存されている。たとえば、台湾においては、烏紅〔烏=死者救済儀礼、紅=生者救済儀礼〕を兼ね行う正一派霊宝道士が類似の儀礼を行っているのをしばしば目にすることができる。公共的なものとしては、たとえば、雲林県口湖郷金湖港萬善祠の毎年旧暦六月七日・八日の二日間に転水車藏を行い、その昔、水難により集団で亡くなった祖先を救済するというのがあり、また、台北保安宮の毎年の中元普度においても転水・血車藏法会が盛大に執り行われ、それによって冥界の亡魂が救済される。個別的な家族による斎儀や功徳では、時折、道士が招かれてこの種の科儀が行われる。転車藏は道教の亡魂済度ための斎法における儀式の一つであるので、したがって、転車藏儀式を行う儀礼の専門家はすべて道士であり、彼らは円形の糊紙製の竹籠と関連する法物・法具を用いて、法輪を回転させるという動作を強調し、それによって亡魂を済度するという幽法に組み入れるのである。その主な動作の意義および効能は、「渡り梯子を象徴する法車藏を回転させることにより、太乙救苦天尊の神光が導くのを頼みとして、(地獄に)落ちた苦魂を引き上げ救出する」ということであり、これは、度生度亡〔生者救済と死者救済〕による不可思議な功徳という教義を体現している。この「車藏」という字は辞典には見られないが、清代の閩南泉州籍の道士の間で秘伝であった手写しの文検においては、初期には「転藏」が用いられ、しばしば「輪転法藏(法藏を回転させる)」と記されていた。後にこの「車」偏のついた「車藏」という俗字を用いて円形の糊紙製の竹籠を指し示すようになったが、この字を用いることで法輪を回転させるという動作を強調し、それによって死者を済度するという幽法に組み入れたのである。例えば、台湾高雄紅毛港の蘇家で保存されている、王建運道長が清の同治13年(1874年)書写した『無上玉籙太丹血湖文検』には、すでに「車藏」という字が現れており、関連経典中に見られる「飛輪宝藏」あるいは「飛転天輪宝藏」という用語のうち「輪転」という部分のイメージを具体的に表しているのである。

 

 道教の転車藏は、一般的に、異常死者を済度するための道教の斎法という意味を有するが、その儀式はその宗教的効能によって三種に分けることができる。水車藏は水難で溺死した者を済度するのに用い、血車藏は難産死および刑罰により傷を負って亡くなった者を救済するのに用い、陸車藏は泉州においては、通常、広く亡魂を済度するためのものとなっている。台湾と泉州で用いられる法物・法具の形状について初歩的な比較を行うと、地域と伝承とが異なっているのに応じていくらか相違が見られるが、しかし、大まかな構造は似通っている。そのうち筆者がかつて文章を著して比較・分析したことのある血湖転車藏について、その文化伝統の背景は、自然と医療技術がいまだ現代化していないころのことを反映しているが、この頃は婦女の妊娠期間中および産前産後に難産が起こることはよくあり、母子ともに亡くなったり、あるいは一方のみが難に遇って、無念や恨みを抱いたまま亡くなったりしていた。しかも、罪過を宿命とし、身は諸地獄の中でも最も苦である血湖に落ちており、太乙慈尊の救済を得なければ永遠に超昇〔往生〕する機会を得られないため、血湖からの救済は最も難しく、したがって、その罪を解除し汚穢を清浄化するのに必要な非常なる功徳がいっそうはっきりと示されるのである。台湾正一派霊宝道壇の斎儀の血湖科儀における転車藏儀式について、霊宝法道場という方式を除いたほかにも、台南渓北地区においてはさらにもう一種閭山派の『無上抜産十転科儀』という方法も存在する。また、筆者が入手した南安の血湖の『召車藏』という写本によると、その儀礼構成のうち重要なものには、挙讃〔讃文を唱える〕、浄壇〔壇を浄化する〕、召直符使者〔直符使者を召す〕、入意〔意文を宣読する〕、請聖〔神々を召請する〕、三上香三献酒、車藏身神明開光〔血車藏および血湖関連の神々の開光を行う〕、宣関召将〔関文を宣読し、関連ある神将を召請する〕、発遣代人替身〔代人を派遣して身替りとする〕、祈杯取魂身〔ポエを投げて聖ポエを得た後、血車藏より魂身を取り出す〕、召五営倒車藏〔五営兵馬を召請して、血車藏を倒す〕、化紙辞神〔紙銭を焚化し、神々を送り出す〕などといったものが存在する。儀礼構成のうちの重要なものと実際の動作を分析し、さらに一歩進んで安渓県官橋鎮にある林姓の霊僊道壇にて伝承されている『太上禳度賞代人科儀』と「三元派買代人公牒」とを比較対照すれば、康元帥が兵将を派遣して揚州へと代人を買いに行かせるという構成要素が最も三元派の特色を具現していると証明することが可能となる。

 

 

三、公共的な禳災和瘟送船を例として

 

 中国長江の中・下流域から福建、広東および東南アジア地域に至るまででは、請王送瘟〔王爺を請来し瘟疫を送り出すこと〕は多く道士や法師などといった専業者にその実施を依頼している。つまり、1000年余り続く悠久な伝統を伝承しているのである。台湾南部沿海の王醮が盛んに行われている地域では、初期の地方志の記載と学者・専門家らの研究、および筆者の現地調査による実証によると、王醮科儀という道法を備え実践することのできる儀礼の専門家は、多くは正一派霊宝道壇の道士であるという。現在、関連分野の研究者の大部分は、ただすでに出版されている文献、例えば『荘林続道藏』や『中国人の宗教儀礼:仏教・道教・民間信仰』等といった資料しか利用することができず、秘伝の古い科儀の写本や文検を深く掘り下げて把握することができ、道士が伝承してきた和瘟送船の淵源や彼らが具現する道法の特質、および実際に儀礼を行う際の身体技法の表現とその根拠について詳しく研究する者は比較的少ない。筆者が長年にわたって台湾と福建で調査した際に収集した道壇関連の古い写本について、起源の追求と比較検討とを行い、その上実際に調査にかかわった時に認識したことを合わせれば、さらに一歩進んで和瘟送船の伝統と写本の中で保存されている源流の体系とを整理したり、和瘟送船の実施状況の特徴とどこに送り出すべきかということが表す意義とを分析して論じたりすることが可能であり、さらには、台湾道教のうちの「台南道」と「鳳山道」の霊宝道士たちが実際に関連ある儀式を実践している際に彼らが用いている法物・法具と身体技法の実演とに内包される効能、および彼らが用いている道法の特色をも分析して論じることが可能である。

 

 台湾の歴史と発展について回顧すると、船は疫病をもたらす主要な乗り物であるが、同時にまた転化して運用されて疫病を送り出すための法具ともなっている。儒家が主編した地方誌においては、多くの場合「王船」と呼称され、迎え入れては送り出す代天巡狩が強調されているが、五帝〔五福大帝〕であろうと、十二値年瘟王であろうと、あるいは諸々の姓の王爺であろうと、いずれも行瘟神〔疫病を広める神〕と駆瘟神〔疫病を駆逐する神〕という二重の職能を兼具している。しかし、道教の写本の中では「王船」という語は見えず、しばしば龍船、龍舟、龍舡といった語を用いてその形状の特徴を説明したり、神舟、神船、仙舟、仙船という語を用いてその神聖さや神秘さを強調したり、花船、華船、画船、彩船と呼称してその華麗な装飾を描写したり、飛帆、飛航と名付けて、洛陽まで思いのまま至ることができたり、仙境を遊び楽しみつつそのまま九天まで至ることができたりするという非常なる超越性を示したりしている。台湾の王爺信仰は中国大陸より伝播してきたものであるが、その経路には二つのものが存在する。一つは、送王〔王船などによって王爺を送り出すこと〕によって伝播して来たものであり、もう一つは、香火を請うて分廬させてきたものである。台湾で継承されている和瘟送船科儀は、福建および広東の道法を主としているが、とりわけ泉州と漳州の関連科儀の写本と文検について、「台南道」と「鳳山道」の地域では、今なお宋元の治病を用途とする秘密の神霄遣瘟送船の経文が保存されており、また、明清の禳災を用途とする公共的な和瘟送彩科儀も伝承されている。これらは、共通の伝統部分を有する他、さらにそれぞれ各自の道法の特色と歴史的意義を表現しており、台湾道教の「生きた伝統」としての意義を十分に具現している。

 

 道教の儀式性の実演と身体技法の表現について、その背後でこれらを支えるために用いられている道理は、宗教の儀式理論あるいは神学の聖事理論である。道教科儀では、前場〔儀礼を行う道士〕と後場〔儀礼音楽を奏でる楽師〕の緊密な協力のもと、家伝あるいは師承の動作や舞踏および道法の功訣〔秘訣〕が行われるが、ここにはおのずと豊富な儀式美学の特質が備わっている。とりわけ、伝統的な詩歌や楽舞、祭祀形式を継承することや、存思と文検の運用、さらには歴代高道〔高位の道士〕の整備を経た精緻な威厳ある儀式については、それが朝元謁聖〔高位の神々に拝謁すること〕を模したものであろうとあるいは神の命により邪気を駆除するものであろうと、自然と民間の巫覡やタンキーの神降ろし、法師が裸足になって髪を振り乱すイメージとは異なっているのである。舞踏という観点から言えば、道教科儀は儀式戯劇の上演形式に類似しているが、しかし、儀礼節度という点では、過度に宗教的意義を表しており、したがって、宗教行道と芸術美学という二重の効能を兼ね備えているのである。南台湾で見られる和瘟送船という儀式においては、いずれも道と法の兼用という特徴が見られる。特に、鳳山道の地域では、昔から伝承されている法場の『押煞』や『送船』であろうと、あるいは新たに作られた『関祝五雷神灯』の形式であろうと、一緒に使用する法具や文検、および表現される身体技法と科介舞踏は、いずれも非常に豊富かつ多様であり、さらにその宗教的意義と象徴的効能を具現しているため、続けて深く掘り下げて研究討議する価値があるであろう。