第7回-(2) 東方地中海における水上居民―広東東部の水上居民モンゴル族祖先伝承を中心に


はじめに―船に住む人々

 

 東アジア、東南アジアには船を住居として暮らす人々がいる。そのような人々を、日本では「家船(えぶね)」と総称することが多い。瀬戸内海では能地(広島県三原市)、二窓(広島県竹原市)、吉和(広島県尾道市)が家船の根拠地として有名であった(【図1-1】)[吉田1941: ,羽原1963:114-117,金柄徹2003:26他]。また、豊島(広島県豊田郡豊浜町)には、近代以降「新しく形成」された船上生活者がいる[金柄徹 2003]。

 

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【図1-1】 瀬戸内海の家船根拠地

 

九州では、東海岸の津留(大分県臼杵市、旧北海部郡海辺町)、西海岸の平戸(旧松浦藩)、西彼杵(そのぎ)半島(旧大村藩)の瀬戸(長崎県彼杵郡大瀬戸町)、崎戸(長崎県彼杵郡崎戸町蛎ノ浦島の(こん)(どまり))、中戸(長崎県崎戸町蛎ノ浦島の中戸)などに家船の根拠地が存在していた(【図1-2】【図1-3】)[野口 1987:64-69,263-264、羽原 1963:138-144,152-155、伊藤 1983:345-346,金柄徹2003:27-30他]。また、西彼杵半島から、五島列島へと分村した集団もあった[羽原 1963:150-152,野口 1987:5]。

    

【図1-2】 長崎県西部 

【図1-2】 長崎県西部 

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【図1-3】長崎県旧彼杵郡旧崎戸町集落配置図

      

さらに、糸満の漁民も家船的集団として分類される場合がある[羽原1963:158-160]。それら「家船」的人々に加え、東京などの都会の港湾、河川、運河にも一時期水上生活者が住んでいた [山鹿 1950]。

 東南アジアに目を向けると、フィリピン南部からボルネオ島にかけて、スールー諸島周辺には「バジャウ(サマ、サマル)」と呼ばれる人々が船上で暮らしてきた[門田 1986寺田 1996,床呂 1992,1999長津 1995,1997,2004他]。その他にも東南アジアには多くの水上居民が存在する。ホワイトによる研究で有名な、ビルマ、タイ南部のメルグイ諸島沿海の「モウケン」[ホワイト 1943(1922)、羽原 1963:165-170]や、カンボジアのトンレ・サップ湖の水上生活者[羽原1963:171-174]、インドネシアの「オラン・ラウト」(海の人という意味、バジャウ等を含む場合もある)[羽原 1963:162-165]、また、フエなどベトナムの水上居民などがある[金柄徹 2003:221-225,長沼、浅川2007](【図1-4】)。 

 

【図1-4】東南アジアの漂海民 関連地名

【図1-4】東南アジアの漂海民 関連地名

 

そして、中国南部の広東省、福建省、広西チワン族自治区、海南省に「蛋民」と呼ばれてきた人々がいることが知られている【図1-5】。

 

 

 

【図1-5】 中国全図

【図1-5】 中国全図

 

本論集の論考における対象地域の設定

 

以上のように水上居民は、東アジア、東南アジアに広く存在していた。また、農民である里人にとっての山中や海上は単なる遠景、時には他界であり、そうした考えかたから派生する山中や海上の漂泊的な集団と平地の農民の相互関係は、日本だけでなく、中国や東南アジアにもあり、むしろ普遍的なものである[伊藤1987:127]。

しかしながら、本論集での考察の地域は、東アジアとする。東南アジアについては、東アジアに比べ陸地の知識人の文字伝承の権威が相対的に確立されていない地域が多いことと、本論集が「東シナ海文化圏」を主題としていることから、今回の論考の主対象からは除外することとしたい。

 

提示しようとする論考の位置づけ

 現在の中国では、彼らに対して「水上居民」という名称が用いられるが、文献上では「蜑」という文字が使われ、陸上生活者からしばしば差別を受けてきた。水上居民が差別を受ける原因は主に彼らの特殊な居住形態にあったのであるが、差別を受けることだけによってのみ彼らの自己意識が形成されているのではなく、陸上に住む人々との相互関係を反映して作られてきたものと言える。こうした水上/陸上という境界は、時に明瞭に現れ、時に曖昧になる。

 本論考では、こうした水上居民の自己意識や陸上に住む人々との相互関係を、東アジアの中国広東東部の水上居民に存在する祖先モンゴル族伝承と、瀬戸内海の家船の「浮鯛抄」などを事例に分析し、東方地中海における水上居民の自己意識と外部による位置づけの仕方の再考察を行う。そこから、東方地中海における水上居民の位置づけへの共通性を見出すとともに、国家や地域の歩んだ政治的経済的文脈が異なることによる差異の存在を指摘できればと考えている。

 

歴史と現在の関わり、内在的視点と外在的視点―事例について

  広東東部、汕尾の閩南語系水上居民である「後船疍民」の五姓は「元番種」出自であるという以下のような伝承が、1950年代の民族識別工作時の調査報告にある。

 

 宋が滅び、元番が中国を統治したとき、三戸ごとに一本の包丁を共用し、3戸ごとに一人の元番を養った。中国人が嫁をもらうには、先に元番に嫁を差し出す必要があった。元番統治の圧迫はたいへんひどく、中国人は反抗に立ち上がり、「大殺元番」と書いた紙を月餅の中に入れ、ある年の八月十五日に月餅を食べるときになって、皆で立ち上がり元番を殺した。当時、恵来県覧表郷に住む元番は、少数が当地の住民に保護を受け、後に婢女と結婚し、人口も次第に増え、蘇、李、徐、鐘、郭の五つの姓を名乗った。漢人はかつての報復として彼らを虐待し、彼らに陸地居住を許さず、一切の権利を剥奪した[広東省民族研究所2001]。

 

 また、同報告書には、1950年7月甲子(=広東省陸豊県の漁港)の後船疍民が戸籍調査に「モンゴル族」と記入したことも記されている[広東省民族研究所2001]。

 しかしながら、中国において「歴史」とは文字で書かれた地方志などの記載がなければ、正しいとは認められにくい。地元の民俗研究家葉良方氏は、「地方志、族譜の記載および民間の口承資料から、疍民は越族の子孫であるといえる。いわゆる後船疍民は「元番種」であるという説は、でたらめである。」[葉良方2004:3]と断定している。

さらに、元水上居民である「漁民」の中にもモンゴル伝説は広まっているが、知識人層、指導者層はむしろ否定的態度をとっている。近年編纂されたとみられる族譜にも下記のようにわざわざ「漢族であってモンゴル族ではない」と記されているのである。

 

 漁村徐氏族譜前書きの一部

   徐氏源流

 查福建族谱,广东族谱,始族瑞宁公乃余振魁公第六子传至现二千一百七十一年,世居南昌市,后子孙繁衍瓜瓞绵绵,支派千流散布全国各地,查八万卡仔,清朝时三位七世祖国学,永丰、永富、永福三位公受封万户候,至现古迹相存。

(略)

 在三十四世祖,文孝公 岭公次子祖妣苏氏,生五子,宋绍兴十七年,丁卯岁迁甲子建基。世传捕鱼为业。以后子孙繁衍瓜瓞绵绵,传至宋瑞宗景炎二年丁卯丑岁传至六代。人口发展近千丁,从此支派千流,散布广东,广西各地沿海,个地区以捕鱼为业。

 蒙古忽必烈侵进我国南方,兵茺马乱,元兵占据沿海各地,我徐姓族亲并同苏、郭、李、钟等五姓鱼民为逃避元番,避免元番推残,便全家搬据船上,东逃西避,时间经久,成为全家捕鱼为业。我徐氏族秦朝徐福东渡,以后便从徐州迁移部分宗亲散居于浙江等沿海地区,开始捕鱼事业已有二千多年历史。元忽必烈九年壬辛岁,宋帝丙、陆秀夫等大臣,被元兵追至甲子镇时,曾受过甲子镇三姓的优待勒封苑山、李海、吴沙坝。后陆上不能容身。 (略)

 查○岭任广州刺史属南宋初期,文孝公迁甲子,捕鱼是八百多年前。历尽沧海桑田,世事多变,徐氏水上鱼船散布全国沿海各地区,后来有些人以强欺弱,对水上人用各种非人伦手段,进行压迫和勒索,还制造谣言,颠到黑白,说鱼民是元番的子孙,是被朱元璋压下海的,一人传虚百人传实,引起后人对鱼民岐视在黑暗社会里,连穿的衣服还要受到限制,不准红带绿,一件衣服两布不称意时殴打,类似奴隶一样,历经几百年抬不起头。解放后受到共产党的重视,宗人才能举头见青天,安排陆地建鱼村,子女上大学,一些人任了国家干部,过着自由幸福的生活,宗人们:水上鱼民原是汉族,并不是蒙族,须知枝叶同根,分流合一,异日相聚务宜相亲相敬,互助互爱可谓是奕叶繁昌,宗枝繁衍。

(魚村 魚民 などは原文のまま。○は判別不能。下線は報告者)。

 

 現在の水上居民が「モンゴル」らしさをもっているかといえば、言語的も習慣的にも、あるいは形質的にも考えづらい。また、葉良方氏が指摘するように「実証的」歴史学からすれば、荒唐無稽な話でしかない。また、詩を書く知識人AやBらとの食事にて(08年3月)それぞれ以下のように語っていた。

 

陸の人A氏

漁民は我々とは違う風俗習慣をたくさん持っている。でも、モンゴル族だというのは、全くの間違いだ。そんなはずはない。モンゴルなら、馬はどうしたのか。もっとたくさんモンゴル族はいたはずだし、そんなに簡単に海に適応できるものか

陸の人B氏(高卒、元教師)

昔、自分が子供のころ(1939年生まれ)、同級生に漁民がたくさんいた。彼らの前輩は、自分たちの先祖がモンゴル族だといっていた。当時はよくわからなかったが、あとで大人になってみて、それは間違いだとわかった。彼らは蒙古ではない。そんなはずはない。

 

 このように、モンゴル人が「そんなに簡単に海に適応できるものか?」という問いもよく聞かれる。しかし、こうした「モンゴル」伝承は、他地域にも存在する。例えば、雲南省通海県の「モンゴル族」は、元軍の雲南平定後やってきた。元滅亡後、牧民が漁民となり、明代から民国期まで、漁業を主たる生業としてきた人々の子孫であるという[通海県史志工作委員会1992:53、606-607]。

 

 一方、瀬戸内海能地の家船には「浮鯛抄」と呼ばれる巻物が伝わっている。その内容は以下のようなものである。

 

 神功皇后が三韓征伐の途中、能地に立ち寄った。この時、多くの鯛が御船の傍に集まったので、皇后は酒をそそいだ。すると、鯛が酔って浮き、能地浦の漁民がそれをすくって献上した。その功績により、皇后は彼らに対して、海はどこまで行って魚をとってもよいと許された[羽原 1963:117-8,河岡 1987:76-7]。

 

 瀬戸内海でも、このように特権的漁業権の根拠として、皇后がやってきたという伝承を文字化した「浮鯛抄」が使われていた。

論集の論考においては、こうした「歴史」と現在の関わり、過去コンテキストの積み重ね、現状の反映が重なって形成される「歴史語り」[山口2011]として捉えなおしたい。そこでは、おのずから水上居民、家船からの内在的的視点と地元歴史家を含めた外材的視点の観点が問題になると予想される。それは一見それぞれ別々に存在しているようにみえながら、相互に絡み合いながら存在している。地域のコンテキストからこれをできるだけ解きほぐし、こうした「歴史」と現在とがどうかかわっているのかを提示していきたい。

 

おわりに―地域文化への接近方法

 東アジアの水上居民と陸地民との関係を、水上居民の内在的視点であった祖先に関する口頭伝承と、それに否定的な実証的歴史研究、あるいは民俗学者、地元知識人も含め文字記録を証拠とする思考とを比較、考察することにより、一見荒唐無稽な祖先伝承がナラティブとして持ってきた意味を確認する。そうした作業により、国家や地域の歩んだ政治的経済的文脈が異なることによる差異の存在を指摘しつつ、東方地中海地域における水上居民の位置づけの共通性を描きたいと考えている。

参照文献

伊藤亜人 

1983 「漁民集団とその活動」『日本民俗文化大系5 山民と海人―非平地民の生活と伝承―』東京:小学館, pp.317-360。

 

可児弘明  

1970 『香港の水上居民』岩波書店。

1972 「蜑族出自説をめぐって」『中国大陸古文化研究』6:19-27。

 

河岡武春

1987 『海の民』平凡社。

 

金柄徹   

2003  『家船の民族誌―現代日本に生きる海の民―』東京:東京大学出版会。

 

白鳥芳郎 

1965 「華南少数民族の生業形態の分析と類型」『中国大陸古文化研究』(1):73-86。

 

寺田勇文   

1996  「スルー海域のサマ族―海洋民の『国民化』過程をめぐって―」綾部恒雄(編)『国家のなかの民族―東南アジアのエスニシティー』東京:赤石書店, pp.217-252。

 

床呂郁哉  

1992 「海のエスノヒストリー―スールー諸島における歴史とエスニシティ―」『民族学研究』57(1):1-20。

1999  『越境―スールー海域世界から―』東京:岩波書店。

 

長津一史  

1995 「海の民サマ人の生計戦略」『季刊民族学』74:18-31。

1997  「海の民サマ人の生活と空間認識―サンゴ礁空間t’bbaの位置づけを中心にして―」『東南アジア研究』35(2):261-300。

2004 「『正しい』宗教をめぐるポリティクス-マレーシア、サバ州海サマ人社会における公的イスラームの経験』『文化人類学』69(1):45-69

 

長沼さやか 

2010 『広東の水上居民―珠江デルタ漢族のエスニシティとその変容』風響社。

 

長沼さやか、浅川滋男

2007  「水上居民の家船居住と陸上がりに関する文化人類学的研究-中国両広とベトナムを中心に」『住宅総合研究財団研究論文集』(34):65-76

 

野口武徳  

1987  『漂海民の人類学』東京:弘文堂。

 

羽原又吉  

1963  『漂海民』東京:岩波書店。

1992 「日本古代漁業経済史」谷川健一(編)『日本民俗文化資料集成 第三巻 漂海民―家船と糸満―』東京:三一書房, pp.11-196。(1949『日本古代漁業経済史』東京:改造社、採録)

 

林耕

1939 「『蛋家』の来歴とその生活」矢部(編)『アジア問題講座第9巻―社会・習俗篇』東京:創元社, pp.373-412。

 

ホワイト,W.G.(松田銑訳)

1943  『漂海民族』東京:鎌倉書房。

(White, Walter. G 1922,The Sea Gypsies of Malaya: an Account of the Nomadic Mawken People the Mergui Archipelago with a Description of their Ways of Living, Customs, Habits, Boats, Occupations. Seely: Service & Co. Ltd.)

 

門田修       

1986 『漂海民―月とナマコと珊瑚礁―』東京:河出書房。

 

藪内芳彦     

1960 『東南アジアの漂海民―漂海民と杭上家屋民―』東京:古今書院。

 

柳田国男      

1992 「家船」谷川健一(編)『日本民俗文化資料集成(3)漂海民―家船と糸満―』三一書房, pp.315-319。(1976,『えとのす』(6)より採録).

 

山鹿誠次   

1950 「東京に於ける水上生活者の生成」『地理學評論』23(7):23-29。

 

山口裕子

2011 『歴史語りの人類学―複数の過去を生きるインドネシア東部の小地域社会』世界思想社。

 

吉田敬市    

1941 「日本における家舟的聚落の調査」『東亜人文学報』1(1)。

 

中国語(著者ピンイン順)

広東省民族研究所(編)

2001 『広東疍民社会調査』中山大学出版社。

 

通海県史誌工作委員会(編)

1992 『通海県誌』雲南人民出版社。

 

葉良方     

1988 「海丰蛋民考」『海丰文史』第六辑pp74-83.

2004 「汕尾市疍民民俗文化史考」『汕尾文史』(14),45-6.