第7回-(1) 東方地中海をめぐる地域文化研究について


1 東シナ海とよばれた地域をめぐる「地域文化研究」

  1. 研究目的、必要性 
 この研究の目的は東方地中海(東シナ海)地域の文化の回復にある。
 それはなぜ必要なのか。次の理由からである。この海域の文化は農耕と漁撈、陸と海の文化といえる。それは元来、多様な文化からなり、中国、台湾、日本、朝鮮半島の基層文化を形成した。しかし、この文化の一体性は近世、近代の国家により分断された。その文化は都合よく自国史の一齣として取り込まれた*1。そして近代化のなかで多くのことが忘れられた。ところが、行き過ぎた近代文化状況は今日、閉塞状況に陥った。そこで、欧米経由で文化の多元性が唱えられることになった。けれども、欧米の近代市民社会を手本とした多文化社会への主張には脆弱な面が多々ある。とりわけ、みずからの足元に潜む基層文化の何たるかを余りよく知らず、固有文化だの独自性だのを主唱する点は限界以上に危険な面がある。それは政治、社会状況に左右され、頑迷な民族主義に結びつきやすい。
 これを克服するためには、首都や大都市の論点をつなぎ合わせて「多元文化」を理解するだけではなく、個々の地域の基層文化を面として認識することが必要である。そこには大きな基軸がいくつかある。それを目にみえるかたち、ひとつの統一像とすることが差し迫った課題である。
 この海域の基層文化が元来持っていた統一像の追究は他人事ではない。一国文化のぶつかり合いには展望がない。従来のかたちの文化の正体性に固執してみても内向きになるばかりである。この海域の統一像の追究は、まさに「わがこと」 である。ただし、その「わが」は東方地中海の周辺に住む人びとだということはいうまでもない。

  2. 呼称 
  中国大陸、朝鮮半島、九州、琉球列島、台湾に囲まれた海をここでは東方地中海とよぶ。また、その周辺の陸地をあわせて東方地中海地域とよぶ。ここにはさまざまな民族集団がいて、興亡をくりかえしたが、ひとつの文化圏を成したとみるからである。中国ではこの海を、古くから「東海」とよんだ。炎帝の少女、女娃(じょあ)は「東海」に遊び溺れて反(かえ)らず精衛となったという(『山海経』北山教)。東海の呼称は中国知識人の見方として後々まで受け継がれた。たとえば、12世紀初の徐兢は宋の使節の一員として高麗にいって帰った。そして「高麗。地瀕東海」と記した(『高麗図経』第33巻、1124年)。徐兢は安徽省和県区の知識人であり、当時、中国江南の士大夫がこの海を「東海」とよんでいたことは確かであろう。しかし、この海域を往来する海民は江南人だけではなかった。古来、百済、新羅、高麗人、倭人、日本人、琉球人も往来した。漢文に習熟した知識人は別として、商人、あるいは各地の海辺の庶民はおそらくこの海を「東海donghai」とはよばなかっただろう。 台湾民族学(人類学)の先駆者凌純聲(1919―1978)は「東亜地中海」(東アジアの内海)という語を使用したという*2。その後、この語(また「東アジア地中海」)を用いる研究者もまれにいるが*3、国家ごとの呼称(東海、東中国海<동중국해>、東シナ海など)が依然として目につく。それは、文字通り、この海域が分断されていることを意味する。

  3. 東方地中海基層文化の含意

 近代国民国家は領土、国境を明確に設定し、その侵犯に対しては国益擁護の名のもとに公権力を使う。一般的にはそうあるべきだろう。しかし、その国益なるものが実は胸算用あるいは幻想であることもある。にもかかわらず、公権力を行使、濫用し、それにより国家規模の不和、不安定を招来するならば、愚かとしかいいようがない。東方地中海上の釣魚diaoyu / 尖閣senkakuという名の島嶼を巡って起こったこと、また蘇岩礁suyanjiao/離於島(이어도 イオド)を巡って起ころうとしていることはまさにその一例である。
 こうしたなか、わたしたちは、東方地中海基層文化の意味を考えてみるべきである。以下にあげるものはこの海域のどこにおいてもみられ、まさに基層文化を形成している。
 (1) 稲作とその祭祀
 (2) 船と漁撈
 (3) 花の信仰、花の民俗
 (4) 蛇と龍、龍王の信仰
 (5) 複葬と霊魂の往来
 (6) 祖先崇拝
 (7) 仏教と道教による冥府、その救済
 (8) 巫の遍在
 (9) 海彼にある他界
 (10) 絶えざる移動、移住、交易

 これらは、衣食住、民間信仰、年中行事などに分類してみれば、この海域のどこにおいても基本的に共通している。また芸能表現などにおいて、非常に独特な世界が形成されていたとしても、根柢においては普遍的な神霊観によることが多い。
                                       
 2 東方地中海地域文化研究のための基準

  1. 東方地中海地域の歴史、地理について

 東方地中海地域の文化研究のための基準はいかにして設けられるのか。いかなる文化も歴史と地理を踏まえなければ、その認識は偏頗なものとなる。ところで、この地域の歴史と地理をみるときふたつの難しさがある。第一は、この地域が陸と海(島嶼)に分かれ、それぞれの歴史が必ずしも一致しないことである。第二は、この海域にとって大きな位置を占める陸地部、すなわち中国の沿海部が南北に長いため、その歴史を一括りにはできないということである。
 第一の点はたとえば、こういうことである。すなわち東方地中海地域では、呉越地方の歴史と文化が重要な役割を持つ。歴史的には呉は前473年、越に滅ぼされ、越は前334年、楚に滅ぼされた。陸地部では、そののち、秦、漢と王朝が交代していく。それに伴い、呉越の文化は大いに変容していく。一方、島嶼部あるいは朝鮮半島に向かった呉越の民はその文化を維持した。稲作と漁撈は不可分であるが、環境により、どちらか一方に傾くこともありうる。朝鮮半島中、南部のような平野部に出会えば、当然、農作に傾くだろう。耕地がなければ漁撈と交易に生きるほかはない。ただし、どちらのばあいにも生活を支える他界観のようなものは変わらなかったとみられる。
 第二の点はたとえば、こういうことである。越人は前五世紀には山東半島に進出した。そののち、山東北辺から沿岸沿いに遼東にいき、南下して朝鮮の沿海部に定着する。こうした長い歴史を踏まえて、高句麗や百済、新羅などの国家は山東半島登州を中国上陸の拠点とした。登州と朝鮮半島の往来の歴史は長く、千年を超えるだろう。630年以来、7世紀後半までの日本の遣唐使が利用したのもこの航路である*4。この時点では東方地中海地域の文化は北と南とで大いに様相を異にしていただろう。南は広東、福建を経て泉州、揚州にすでに南アジアやアラビアからの文物が及んでいた。それらが東に達するのは、九世紀前半であろう。そのころには山東半島の南辺赤山浦に拠る新羅人が東シナ海東部の交易を担うことになる。張保皐(?―841<846>)はそのなかから出た人物で、このもとで東シナ海の東部は海のシルクロードにつながっていく。だが、こうしたなかでも、琉球列島はまだつながっていない。それが海路でつながるのは13世紀半ば以降*5、宋元のころである。その間の琉球の歴史と文化は中国や朝鮮半島海辺の歴史では括れない。以上は一例だが、要するに東方地中海は各地域にそれなりの歴史があったということになる。

  2. 東方地中海地域文化の統合像に向けて―準備 

      1)東方地中海文化のなかの地域区分について
 東方地中海の地域区分をどのように設定するか。これについては、下野敏見がすでに次の分類を提案している。
    (A)九州島を中心とする地域。対馬、壱岐、平戸、五島、天草、長島、甑島などを含む。また瀬戸内海、中国、四国、畿内の沿岸部も含む。
    (B)種子島から与那国に至る南西諸島。
    (C)韓国南部沿岸、済州島およびその付近の島嶼。
    (D)上海から廈門に至る中国東南岸地域および付近の島々。
    (E)台湾島および付近の小島群。
   以上を概括して、ここはまた「漢字文化圏、儒教文化圏としての基本的な文化の共通性」もあり、「民衆レベルの親近感もつよい地域」という。ただし、残念ながら、この下野敏見の概括は願望でしかない。近代日本の学校教育では、「民衆レベルの親近感」を裏づけることをしてこなかった。今日の日本人には、むしろ欧米よりも縁遠い地域といったほうがよいというのが実情であろう。それゆえ、下野のいうように、この地域の「民俗文化史的探索は将来にわたるわれわれの課題」として存在する*6。

   2)三地域からの考察
 東方地中海地域は広大で、多彩な地域文化を含む。朝鮮半島の西南島嶼部と済州島とでは個々には異なる点も多い。沖縄県においても沖縄本島と宮古、八重山ではまた異なる。そうしてあげていくと、またいくつもの小地域が分立することになろう。ここでは、それとは反対に大きく取り上げることをこころがけ、あえて次の三地域を取り上げた。
  ①泉州・台湾地域
  ②琉球・九州地域
  ③朝鮮半島南部・済州島地域

 この三地域の選定はあくまでも暫定的なものである。①の地域は中国江南の伝統文化を語るのに必要十分とはいえないにしても、今日、なお生きた民俗を相当に伝えていて注目される。泉州と台湾の基層文化においては伝播、変容、創造などの面で語るべきことが多い。今日では両者の交流が進展し、関係は深化している。それゆえ、この地域を一体としてみる視点は、東方地中海南部の地域文化を把握する上で大いに役立つとおもわれる。なおこの際、浙江省の舟山群島や嵊泗群島の文化は近年、調査も進展しているので、その成果を参照すべきことはいうまでもない。
 ②の地域については、日本の民俗文化研究史を踏まえると、下野のようにふたつに分けるのが妥当かもしれない。ただし、7、8世紀以降顕著になる海上シルクロード(アラビア半島から中国南部沿海部、さらには朝鮮半島、日本<博多>までの交易路)の交易には宋代までは加わらなかった。その意味で一括りにした。なお、この地域の内部でも同じ時間が流れていたわけではないことはいうまでもない。たとえば、777年、五島の三井楽に第16次の遣唐使一行が到着し、揚州、楚州に向けて出洋したとき、沖縄はまだ農耕社会以前、貝塚文化の時代であっただろう。
 ③の地域についても、個々の民俗文化においては異なるものも多い。しかし、徐兢のいう明州道(明州から舟山を経て朝鮮半島に向かう航路)を中心にみるとき、済州島はひとつの山あてとして機能した可能性*7があり、朝鮮西南部の島嶼とつながる。
 こうした三地域の内側でどのような民俗文化が比較対照の項目となるのか、別途「東方地中海地域、三地域に基づく比較対照項目」として書き出しておいた*8。参照されたい。

  3. 東方地中海地域文化の統合像に向けて―内と外の視点の交錯

 地域を選定し、基層文化の個々の項目に着目する。以上はいわば準備段階である。その上で、実際の比較研究がはじまる。ところで、研究を進める際、次の視点は絶えず意識しなければならないと考える。
   ①内からの視点
 この視点を持つには、当該地域に生まれ育つことが最も適している。とはいえ、それがすべてではない。無自覚に生きて語るならば、その言説は管見、偏見そのものということもある。そもそも自分で自分が何者かを知ることは非常にむずかしい。それよりはむしろ、外から加わり、当地の生活空間で一定の期間みつづけるならば、それはやはり内からの視点といえるだろう。
  ②外からの視点
 調査、仕事、旅行などのかたちで訪問し、当該地を異文化、異なる社会として観察し、認識したもの。これを外からの視点とする。われわれの研究の多くはこれに該当する。問題なのは、通例は「外からの視点」ということに無自覚だということである。日本人のばあい、その研究が日本からの視点でしかないということに無頓着ということになる。これは何も欧米人のオリエンタリズムに限らない。
  ③第三の視点―視点の交差
 上記の1、2を意識しつつ、絶えず交差させることが第三の視点である。端的にいえば、日本人研究者はまず現地側、つまり「内からの視点」を知り、次にみずからの「外からの視点」を提示し、最後に、両者の緊張関係のもとで結論を出すということである。

 3 研究の方向性―暫定結論

 以上、東シナ海とよばれた地域を東方地中海とよび、そのもとで、いかなる基層文化が比較対照の項目となるかをあげた。また、この研究の基準とすべきことを、地域の分類、視点の持ち方に分けて述べた。これらはすべて研究の前提とでもいえるだろう。
 ところで、いかなる到達点に向けて研究を進めるべきなのか。これはいわば「研究の方向性」にかかわる問題である。この問題に関してはさまざまな方向性がありうる。本プロジェクトのまとめ役として、目下、考えている方向性は次の五点である。
 1.東方地中海地域における共通の基軸の存在
 東方地中海地域の基層文化においては次のような共通の基軸を取り出すことができる。
  1)動物、植物との根源的な共存  
  2)女神の優位  
  3)村落、一族、家族の平安のための祭祀 
  4)海神(蛇、龍王)と山神への祭祀  
  5)仏教、道教の民間(巫俗)への浸透  
 2.埋もれた歴史
 東方地中海地域は古来、強力な王朝(帝国)の縁辺にあった。ここは支配秩序の中枢にはなりえなかった。そのため、その歴史の大方は埋もれている。しかし、古く、海上の道が存在し、多様な文化が存在した。その掘り起こしは今なお十分ではない。
 3.越境と帰郷
 古代越人は船を馬の代わりに用いて盛んに移動した。南は東南アジア、インド、アラブへ、北は山東半島へ、さらに、そこから朝鮮、日本へと移動した。『史記』の徐福東渡伝承はその一端である。また百済、新羅の海民は東方地中海東部に交易圏を作り、各地に定住した。唐宋代にはじまる華僑華人の海外活動、また近代にとくに顕著な琉球、朝鮮人の移動と定着は同じ系譜の上にある。彼らは一方で魂の故郷を信じる。それは独特の他界観を形成し、今日に至っている。
 4.進取の気概
 張保皐は朝鮮半島南部「海島」の出身で、唐に渡り、のちには故郷に帰って、広い交易圏の主宰者となった。中国江南は中国近代革命の根拠地でもあった。この海域の人びとは既成秩序の弛緩、崩壊に直面すると、容易に越境した。新しい秩序への果敢な挑戦は古代からの文化的伝統であった。それは周縁性を強いられた者の自然な精神的営為であった。
 5.新たな枠組
 以上の認識を各地域の人びとが共有し、なお、互いに他を尊重し連帯するとき、東方地中海地域は、ひとつの統合された文化主体として浮上するであろう。そこにはまた国家の障壁を乗り越えるひとつの代案も含まれている。16世紀以前、海を通しての頻繁な往来、多民族的な集団構成が日常のレベルでみられた。明や朝鮮朝、徳川幕府の海禁により、それが途絶えた。14~16世紀には、合法的な生活の手段を奪われた海民の一部が倭寇集団となった。しかし、近世国家は倭寇を根絶させ、陸と海を分離した。それを受け継いだ近代国民国家は一国文化、一国本位の秩序を推進した。しかしそれは今日、明らかに閉塞している。新たな枠組が必要である。それには手順がいる。唐突に「東アジア共同体」などといっても地に足がついていない。それ自体は好ましいことである。・そうであれば、われわれは、東方地中海上で基層文化が躍動していたときを再認識することからはじめなければならない。
 以上、研究の方向性に対する暫定結論である。


*1 初期の日本民俗学が日本の伝統文化の究明のために南島民俗に接したことは好例である。また近代の日本人は、東方地中海の歴史を遣唐使や日宋、日中貿易の航路あるいは倭寇の拠点という視点からみることが多い。そのためか、海域全体としての接近はなく、各地域を点として、あるいは日本とのかかわりにおいてのみ取り上げることになる。もっとも、こうした視点の限界は日本に限らない。近代国民国家の教育はいずれも自国史を中心としている。それがこの海域に関する知の閉塞状況を生んでいる。
*2 伊藤清司「呉越文化の流れ」『日本の古代3 海をこえての交流』、中央公論社、1986年、191頁。
*3 たとえば、小川雄平「東北アジアの胎動と「東アジア地中海経済圏」」『アジア共生学会年報』、アジア共生学会、2007年。
*4  東野治之『遣唐使船―東アジアのなかで』 (朝日選書)、朝日新聞社、1999年、26頁参照。
*5 佐藤信、藤田覚『前近代の日本列島と朝鮮半島 (史学会シンポジウム叢書)』、山川出版社、2007年、160頁。なお、琉球はグスク時代(11~12世紀)にすでに宋商を中心とする東アジア交易体制に組み込まれていたという見方もある。いずれにしても、この琉球が14世紀には明に朝貢し、この海域の歴史の表舞台に登場することになる(赤嶺守『琉球王国』、講談社、2004年、29頁)。
*6  下野敏見『東シナ海文化圏の民俗―地域研究から比較民俗学へ』、未来社、1989年、14頁以下。
*7  徐兢、朴尚得訳『高麗図経』、国書刊行会、1995年、241、243頁。森平雅彦は、『高麗図経』の「半托伽」は済州島であり、当時の船員はこれをあて山として利用した可能性があるという(「高麗・宋交通と朝鮮西南島嶼」)。徐兢一行の船の位置からみて、その主張は妥当であろう。http://askcs.jp/pg30.html
*8 サイト「東方地中海地域文化の生成と変容」のうち「 4. 対照すべき主要な項目一覧」の別表参照。  http://www.keio-asia.org/e-med/generation/4/