東シナ海文化の現場-2008年汕尾、海陸豊劇による旧正月


 
 1月4日

11

11

12

12

13

13

14

14

15

15

16

16

17

17

この地方では、旧暦12月24日、神がみは馬に乗り天上にいき、1月の5日に戻るとされている。それで、前日の4日に神がみを迎える準備をはじめる。とくに玄天上帝をまつった後寮仏祖廟(後寮は地名)ではこの日から演劇が開始される。これを落馬戯という。

    これとよく似た習俗は莆仙地方に伝わる。すなわち「初五做大歳」である。これは12月23日(所によっては24日)に竈神やその他の神がみが上天し、4日に各家庭で接神し、5日に「做歳」(新年迎え)をするものである。しかも、この5日正月の習俗は他地方ではみられないと記されている。そしてここには、1526年、倭寇が大晦日に仙游の楓亭に侵入してきて殺戮を恣にしたことからはじまったという伝承がある(葉明生『莆仙戯劇文化生態研究』、廈門大学出版社、2007年、78頁参照)。この行事がそのときから実際にはじまったのかどうかは検討の余地があるが、他地方にはみられないという点は注目される。それでいて、福建系の人びとが住む広東省汕尾には類似したものがみられる。このことは、両者のあいだにつながりがあったことを示しているのかもしれない。なお、莆仙でもこのときに芝居の上演がある。

 この廟の主神玄天上帝は汕尾だけでなく広東の東部で広く信仰されている。この神をまつる陸豊市碣石鎮の玄武山仏祖廟とその背後に連なる元山寺は一体で、一年中参拝客が絶えないという。ここはすでに省内有数の観光地となっている(図版11)。おもしろいのは道教の神でありながら仏祖として尊ばれていることである。漁民のあいだではこの仏祖と媽祖が一対で彼らの生業や家族を守ってくれるとおもわれている。
 この日の演劇は陸豊からきた華昇正字劇団による。海陸豊の演劇は用いることば、曲調などの違いに基づき、正字戯(正字は官話)、白字戯(白字は方言)、西秦戯の三つに分けられる。ただし、現在の汕尾市では正字戯、白字戯が中心で、今回、城区では西秦戯の上演はみられなかった。汕尾市の劇団数は非常に多く、2003年現在、総数157とされている(後述「2 正字戯、白字戯、西秦戯と海陸豊の劇団」の箇所参照)。そのうち、正字戯は中原地方つまり北方の官話を基にしたもので、一般の人びとには十分にはわからない。そのため、白話(方言)による白字戯がもっとも好まれている。一方、西秦戯も北方のことばを用い、正字以上にことばがよくわからないせいか、現在、あまり広くはおこなわれていない。西秦戯の劇団数は極端に少なく専門の劇団と業余劇団が海豊と汕尾にそれぞれひとつずつある。
 本日の演目は午後『紀銮英生子』、夜『楊文広招親』である。汕尾城区のばあい、大体、午後と晩の二回上演がある。別の地方では晩の一回だけというところもある。また、神の誕生日などでは、午前中にも演劇があり、1日に三回となる。
 劇団への報酬は一台(一日単位)で3000から4000元が相場である(後述の西秦戯は一台5000元でかなり高額であった)。これはあらかじめ廟の理事会と劇団長とのあいだで契約しておく。しかし、演目は当日、開幕の直前に話し合い、かなり簡単に決める。劇団側の演目リストは事前に赤い紙に印刷されて届けられているが、理事会ではとくにそれを吟味していない。そもそも奉納芸なので、毎年、同じような演目で一向にかまわないのだろう。
 全般的な印象でいうと、昼の演目は時間も二時間以内で、簡単な筋立てのものが多い。一方、夜は大体、四時間以上の長編で、内容も複雑なものが多い。ただし、観客の表情をみると、昼も夜もとくに区別しているようではない。その点はおもしろい。
 午後の演劇はまず八仙、加冠のような祝福の場面からはじまる。これは毎日くり返される。このことは福建省の地方劇でもみられる。東方朔以下八人の神仙が現れ、当日の祭祀、また地域、住民の平安、繁栄を予祝する。八仙は全員揃うと、舞台の中央に座る。演員の話によると、彼ら全体で「壽」の字を象っているとのことである(図版12)。次に仮面を着けた者が現れて、立身出世を予祝する(図版13)。これは観客への祝福である。
 このあと、「仙姫(天仙)送子」がおこなわれる(図版14)。これは、この地方独特のものとおもわれる。天上を代表して仙姫が子供を送る(図版15)。それを理事会側、とくにその日の奉納芸能の出資者に授ける。これにより、その家族を確実に祝福することになる。しかも、子供の立身出世を象徴する冠り物も添えてある。これは一旦、廟内に安置され(図版16)、その日の夜、舞台上に送り返される(図版17)。この仙姫送子の儀礼は毎日くり返される。
 以上は当日の演目とはとくにかかわりがない。

18

18

19

19

20

20

21

21

22

22

23

23

 午後の『紀銮英生子』は紀銮英を主人公とする。紀銮英は唐の将軍薛丁山の子薛剛(図版18)の妻である。この女性は女杰(女傑)として演劇ではよく知られている。すでに子供(薛狡)を一人設けているが、紀銮英は子を背負いつつも、夫薛剛とともに唐に反抗する(図版19)。ところが、そのとき、紀銮英はもうひとり子を産むことになる(図版20)。これが薛葵である。紀銮英は二人の子を外公(母方の祖父)に委ねて戦いに打って出る。そんな場面がひとしきり演じられる。
 この場面で、人びとは理不尽な国家に反逆する英雄をみているというよりは、どんな状況においても子を産む女杰の姿に共感しているようだ。そして、演じる方もそこに焦点を合わせている。ここには薛丁山と樊梨花夫婦の焼き直しのようなところもある。樊梨花もまた地方劇ではたいへん好まれる女杰である。人びとはこうした女杰と息子の成長の芝居を何回でもみたがるのであろう。そのため、武器を取って戦う妻がくり返し現れることになる。
 ちなみに、この二人の息子の後日談は別の演目『双招駙馬』でも登場する。これは別の廟の正字戯でみたものだが、その芝居では、彼ら二人は母親に厳しく育てられ、やがて駙馬(公主の婿)になる。もちろん仏祖廟の観客はそうした演目も承知しているはずでる。
 晩の『楊文広招親』は宋代の物語である。巾幗(女)の英雄として知られる穆桂英と楊宗保のあいだの子が楊文広である。宋朝の武将楊文広は、宋に敵対する呉坤を討つために出征する(図版21)。ところが呉坤には金定というむすめがいて、これがたいへんな女杰である。楊文広はついに戦いに破れてしまう(図版22)。そして、呉金定の婿となる(図版23)。この戦いのさまと最後の結婚までの話が4時間あまりにわたって演じられた。結末は皆よく知っているので、さすがに最後の辺りになると、数えるほどの観客しかいなかった。
 表題中の招親とは「婿入りする」という意味である。婿入りを主題とした演目はこの地方では好まれている。これは注目に値する。なお、仏祖廟の三日目には『八宝招親』というのがあった。この場合は八宝(女主人公)が「婿を取る」の意味である。

 1月5日

24

24

25

25

26

26

27

27

 後寮仏祖の2日目は午前、午後、晩の三回、芸能がおこなわれた。演目はそれぞれ『蟠桃赴会』『六国封相』『会李后』である。
 この日、演戯の冒頭に舞台浄めの儀礼がおこなわれた。劇団顧問役の曽広喜氏の扮する騎南爺が虎叉(武器)を手にして現れる。そして激しく跳び回る。やがて、鶏の血(図版24)、火を用いて隅ずみを浄める(図版25)。
 これは浄棚という。まさに祭祀儀礼である。細部に小異はあるが、基本的には武器、火、鶏(その血)などで煞をはらうということである。これは他の廟でもみられた。演劇が奉納芸である限り、これは欠かせない。汕尾では、廟会の演劇のばあい、現在なおどこでもみられるものといえるだろう。
『蟠桃赴会』は玉皇の誕生日を祝うことが眼目の演目である。ただし、玉皇は一般に初九(正月9日)が誕生日とされている。それゆえ、この日の上演は八仙や西王母、その他の神が集合することを眼目にしたものといえる。ただし、最後の場面では孫大仙(孫悟空)が仙桃のなかから子供を取り出して玉皇に献上する。そして、また、この子供を携えて「千子万孫」(子孫繁盛)を予祝する(図版26)。これは観客への配慮であろう。
 ちなみに明代の演戯を伝承するとされている福建省政和県の四平戯でも『蟠桃会』が演じられる。四平戯では玉皇ではなく西王母の誕生日を祝う内容となっている。こちらのほうが古いで伝承であろう。すわち玉皇はあとからはいりこんで女神を従えるに至ったとおもわれる。これは9日の「天地父母誕」とも関係する(後述)。
 『六国封相』は戦国時代の蘇秦の故事である。すなわち蘇秦は秦に対抗するため、六カ国の王を説き伏せて合従させ、みずからはその宰相となった。表題からもわかるように、この日の演出はそこまでである。1時間半以上にわたって六カ国へ信書を届けるさまがくり返し演じられる。馬に乗っての移動のさまを一人の役者が馬の形代を着けてさまざまに表現する(図版27) 。これは正字戯ではひとつの見せ場なのだろう。

28

28

 

29

29

 

30

30

 

31

31

 

32

32

 

 

 晩の演目『会李后』は一般に『狸猫換太子』として知られるもので、これは地方劇では好まれる演目である。実際、今回の滞在中、わたしはこれを二回みた。すなわち正月13日に海豊県峰山村でみた西秦戯の演目(後述)がやはりこれであった。
 これは北宋、真宗代の物語である。真宗の后には劉氏と李氏の二人がいた。真宗には世継ぎがなかった。このときいち早く李氏が懐妊した。劉氏は臣下と謀って、男児が生まれたならば、猫の皮を剥いだものとすり替えることで、真宗を騙そうとした。李氏が男児を産んだ。そののち、ことは劉氏らの計画通りに進み、奇妙な子供を産んだ李氏は真宗により冷遇される。さらに李氏は殺害される寸前までいくが、臣下の助けで生き延びる。
 一方、実の子供は侍女の機転により救出され、別のところで成長する。そして、この男児が劉氏の養子となり、やがて宋の皇帝仁宗となる。実母の李氏はそのことを知らない。李氏は不遇のさなかに盲目となり、身寄りもなく流浪する。
 この晩の演目では以上のうち、李氏が流浪するまでの前段階は演じない。しかも、表題に名前のある李后はなかなか登場しない。李后に代わって登場したのは佘太君という老女である。この女性は老成した女杰で、地方演劇では活躍する。ここでも仁宗の臣下たちの謀略により忠臣焦廷貴が死の淵に臨んだとき、これを救済する(図版28)。
 ここでは佘太君のほかにもまた于氏が現れる。于氏は、夫であると同時に奸臣でもある沈国清を諫めたがために殴り殺されてしまった。于氏の無念のさまはかなり詳細にえがかれる。于氏は冥府で閻王に会う。そして、夫のこと、死ぬまでのいきさつを語る(図版29)。こうした演戯のあと、包公が現れる(図版30)。
 観客の期待は錯綜する。まずは于氏の冤魂が済度されなければならない。そして流浪の李后は本来の地位を回復しなければならない。それにこたえるように、包公はまず于氏の無念の死を明らかにする。
 さて舞台上では後半もだいぶ過ぎてから李氏(佘太君と同じ役者)が現れる。流浪の李氏は善人の農民郭海寿と出会い、彼らとともに暮らしている。やがて、郭海寿は包公の落とし物がたまたま自分の野菜桶のなかにあったことから、役人に咎められる。そして包公に裁かれることになった。包公は郭海寿の語ることばを聞き入れる。そして、その家を訪ねていき、李氏に行き会うことになる。やがて包公は盲目の女性が実は李后であることを知り、額ずく(図版31)。やがて李氏と包公のあいだでかつての宮廷での出来事が語られ、劉氏の謀略が明るみに出る。
 晩の4時間余りの演戯はここまでであった。この正月は広東省でも例年になく気温が低く、晩の11時を過ぎて屋外で観劇するのは楽ではなかった。しかし、婦人たちのなかには最後まで楽しげにみている人がいた(図版32)。
 この演目は理不尽な境遇にさらされた李后の話を歌と舞でみせることに主眼がある。しかし、それだけではなく、佘太君のような老成した逞しい女性(芝居で名高い楊家の女性たちの祖)、横暴な夫により殺されてしまう無念の女性などが現れて、観客の興味をつなぐ。だが、もちろん、それだけでは観客の納得は得られない。そのため、包公が登場して、冤魂を解きほぐすことになる。
 『狸猫換太子』は清代末期の『三侠五義』に基づくとされるが、この話は民間の語り物として長い歴史を経ていたとおもわれる。ちなみに、この話の原型は3世紀に康僧会により漢訳された仏教説話集『六度集経』にあるという説が提示されている(劉守華「『六度集経』与中国民間故事」『外国文学研究』第3期、2007年ほか)。『六度集経』の話では狸猫はない。李氏に相当する不幸な后の産んだものは「百の卵」である。この卵が河に捨てられたものの神助により男子になる。つまり細部ではかなり異なるが、中国において法体の説経者が仏教説話を改作して唱えていくうちに、今日のものができあがった可能性は否定できない。

1 2 3 4 5 6