東シナ海文化の現場-2008年汕尾、海陸豊劇による旧正月


 1月15日

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 元宵節。汕尾の媽祖廟(安美媽祖廟、鳳山媽祖廟)ではこの日、花公花婆迎え、開灯、採花枝という行事がある。花公花婆迎えは晩の採花枝行事(後述)の前提としておこなう。開灯は文字通り、この日から媽祖に灯火を差し上げるということのようで、実際に、人びとのみている前で、神前の灯(ガラス製で灯篭を模した物)の覆いが引き上げられる(図版60)。
 一方、採花枝は花あるいは花の枝が生命、サチ、安寧をもたらしてくれるという観念に基づいてなされる。人びとは花の枝を争って手に入れようとする。これと類似した民俗は貴州省などでもみられる。「跳花」というのがそれで、この種の観念、民俗はかなり普遍的なものといえる(野村伸一「跳花― おどる花― 」『慶應義塾大学日吉紀要. 言語・文化・コミュニケーション』 No.10、1992年参照)。汕尾では、花の採取儀礼は毎年、花公花婆の前でおこなわれる。
 安美媽祖では近くの花公相府廟までいき、そこから花公花婆を迎えてくる(鳳山媽祖廟では廟内に花公花婆がある)。午前9時、安美媽祖廟の門前に隊列が整い、音楽が奏でられる。やがて爆竹とともに百人以上の人びとの行列がはじまる。一行は全員狭い路地の奥にある花公相府廟までいく。そこで、神位を借り受け、神輿とともに安美媽祖廟まで歩いてくる。そして、舞台の前に安置するや、媽祖廟の役員たちと隊列に参加した人びとは花公花婆に向かって拝礼をする。
 このあと、理事会の役員や他の人びとは廟内に移動し、開灯の儀をおこなう。午前11時ごろ、花公花婆迎えと開灯の儀が終了した。
 これをみると、花公花婆は媽祖にも匹敵するほど篤くまつられていることがわかる。花婆は名前とは異なり、若々しい母親の姿で左手に赤児を抱えている(図版61)。花婆は福建省にとくに顕著な花の信仰を民俗化したものであろう。福建系の人びとのあいだでは花の生命力は新生児と結びつき、さまざまな祈子儀礼を生み出している。このことは臨水夫人に関連する行事でよくうかがわれる(野村伸一「台湾人の儀礼と物語(二)」『慶應義塾大学日吉紀要. 言語・文化・コミュニケーション』 No.25、2000年参照)。そうしてみると、広東省汕尾の採花枝は花の生命力に対するまた別の表現といえるだろう。
 安美媽祖廟では夜7時過ぎに採花枝の行事がはじまる。すなわち舞台前の広場に人びとが集まり、花の枝をもらい受けるのである。このためには一定の区画のなかにあらかじめ榕樹の太い枝を何本か立てておく。そして、その枝先には個々人に配布するための赤い守り札がたくさん吊り下げられてある。人びとはそれぞれ10元から50元くらいの紙幣を用意してきて、この札を小枝ごと買い取る(図版62)。
 とくに混乱は起きなかったが、やはり人びとが殺到する。少しでも早く御利益にあやかりたいとおもうせいか、一時間もしないうちにお守りつきの枝はほとんどがなくなってしまう。守り札を手にした人びとは改めて花公花婆に拝礼し、さらに媽祖を拝んでいく。これが元宵節の晩の過ごし方である。
城区の東側地区を代表する鳳山媽祖(西側は安美媽祖)でも盛大な採花枝の行事がおこなわれる。ただし、まったく同じ時間ではなく、いくらか遅い時間とのことであるが、その様子は未見である。

 1月16日

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 午前中、漁村の婦人たちの有志が小型のバスに乗って郊外の無縁墓を参拝にいくという。女性たちの集団での神詣でというのは興味深い。そこで、これに参加させてもらうことにし、いっしょにでかけた。場所は汕尾市紅海湾紅外湖である。車でおよそ30分余り。
 ここに宋大峰廟というのがある。なかには宋大峰祖師(北宋時代の高僧)がまつられている。とくに興味深く感じられたのは、それに隣接したところに「百姓公媽墓」が建てられてあり、人びとはここにも拝礼をしていた点である(図版63)。これは無数の無縁の遺骨を集めてまつったものである。そして、廟内の碑文によると、そもそも、ここに宋大峰廟ができたのも、この付近に散在する多数の骨(「五千七百具」とのこと)の供養が機縁だという。
 漁村の婦人たちの集まりは任意のもので、日本でいう講のようなものである。ただし、定期的に会合を持つことはない。彼女らは折に触れて童身(童乩のような人)という霊媒に率いられて、各地の神仏を拝んで回る。漁村には童身は男女併せて十数名いる。童身には一定の収入がある。一方、漁村の女性たちには余り仕事がない。それかあらぬか、近年、童身は増加の傾向があるという(前引、周玉蓉「民間信仰与地域群体関係-汕尾疍民信仰研究」)。
 ところで、今回の集まりの中心になった童身は蘇さん、65歳である。若いときに観音菩薩が身に降りたという。こうした観音菩薩は仏教信仰というより道教の神に近い。蘇さんの自宅には観音菩薩をまつった祭壇があり、正月を迎えるにあたっては他の神がみとともに手厚くまつっていた(図版64)。
 この日の宋大峰廟詣でにはバス二台分、40人ほどが参加していた。なかなかの動員力である。おそらく、漁村の婦人たちのあいだには今日なお、途切れることなく敬神の念があり、童身のような霊媒が方向を示しさえすれば、すぐに数十人は集まるのであろう。この婦人たちは昼は自炊する。皆で手際よく料理をし、雑談をしながら長めの昼食を取り、帰っていく。祭祀演劇を支えているのはこうした女性たちの信心深さなのであろう。

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 今回の滞在中の最後の晩は、花公相府廟で白字戯『三巧奇縁』をみた。劇団は「陸豊市上海老班」である。花公相府廟は路地の奥にある小さな廟である。相応に舞台もささやかである。しかし、理事会の役員の話では、毎年、正月と7月7日(花婆の誕生日)には数日の奉納芸能を催すという。もちろんその経費は、近隣の多くの人びとと、外地に移り住んだ少数者の寄付による。つまり自前である。
 額の多少はあれ、こうした寄付により芸能の奉納が成り立っているのは確かである。反対給付は精神的な慰安、満足あるいは名誉ということであろう。いずれにしても、その敬神の念はたいへんなものである。そもそも昼過ぎから晩の12時近くまで鳴り物が響くのである。従って、これは地域の十分な協力がなければ維持しえない。費用はもちろんのこと、精神的な協力も欠かせない。そして、何よりも毎年同じようにやってきて同じような出し物をやるのに、これを楽しみに観にくる人びとがいる。これがなければ存続はありえない。こうしたことが路地の奥の廟を中心にみられるということ、それは今日ではひじょうに数少なくなったもので、一種驚くべきことだとおもわれる。
 ところで、この日の演目『三巧奇縁』は、洛陽の陶景玉が若い妻に別れて科挙のために南京にでかけるところからはじまる。陶景玉は途中で賊に襲われるが、助けられる。そして立ち寄ったところで若い娘林淑貞と結ばれる。
 陶景玉はさらにまた旅をつづける。すると、今度は水辺で賊に遭う。陶景玉は身ぐるみ剥がされてさまよう。そこへ漁夫とそのむすめが現れる。汕尾のこの廟が海に近いということもあるのか、漁夫が網をかけ、むすめが手伝うさまなどが演じられる。彼ら親子はこころがけのよい漁師としてえがかれる(図版65)。そして陶景玉は今度は漁夫のむすめと結ばれる(図版66)。
 しかし、陶景玉は漁夫のもとを去り都へ出て科挙に合格する。今や、栄達した身の上となった。ところが、そこへ、夫を探して漁夫のむすめと林淑貞がやってくる。陶景玉の家庭に葛藤が生じるが、あっけなく和解が成立して団円となる。
 どうも、この話そのものは平版でたいした山場もなかった。観客もあまり多くはなかった。舞台はあまり冴えたものではなかったが、子供たちが晩の12時近くまで、舞台のすぐ下で遊んでいる光景が印象に残った。これはこの廟だけのことではなく、どこの廟の舞台にいっても子供が数多い。
 芸能の盛り上がりということに関して付言すれば、これだけ多くの奉納演劇があちこちでおこなわれているのだから、物語によっては盛り上がらないものも少なくないことだろう。そもそも、理事会も劇団側も観客の多少は第一のこととみなしていないのではなかろうか。
 ちなみに、かつて、台湾小琉球の三隆宮(王爺廟)では観客のほとんどいないなかで延々と朝まで王爺のための奉納芸がおこなわれていた。つまり、廟前の奉納芸能は近代的な意味の演劇ではけっしてない。そのことを痛感した。これが今回の汕尾でみた最後の芸能であった。幸か不幸か、幕切れとしてはあまり劇的なものではなかった。

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