東シナ海文化の現場-2008年汕尾、海陸豊劇による旧正月


 2 正字戯、白字戯、西秦戯と海陸豊の劇団

 正字戯、白字戯、西秦戯については、以上の日誌のなかでも簡単に触れておいた。そこで次に、これらについて簡単にまとめておくことにする。あらかじめいうと、中国国内においても、方言の壁があるせいか、海豊県在住の呂匹氏ほか、ごく少数の人のものを除くと、これらを本格的に論じたものがない。
 現在、中国内で知られている主要な文献としては、呂匹『海陸豊戯見聞』(花城出版社、1999年)、陳春淮『正字戯大観 談芸録』(花城出版社、2001年)がある。いずれも現地での長年の実践を踏まえたもので貴重なものである。このうち、呂匹の著書は随想集の趣があり、体系的に論じたものではないが、正字戯、白字戯、西秦戯を全般的に語っていて理解を助けてくれる。そこで、以下、主としてこれによって、それぞの劇の特徴を概観してみる。
 なお、日本文で記されたものとしては田仲一成氏の『中国祭祀演劇研究』( 東京大学出版会、1985年)の第三篇第三章の冒頭に「海陸豊劇の形成」がある。そこでは中国の研究者に先立って、海陸豊劇の到来経路を論じている。さらに、同氏の『中国地方戯曲研究』(汲古書院、2007年)「第六章(上)粤東の-海陸豊劇」の章では、江南の南戯全体のなかに海陸豊劇を位置づけるという、壮大な枠組のもとで正字戯、白字戯を取り上げている。この視点は現在のところ、中国の研究者にはみられないもので、卓越したものである。そこではまた、呂匹氏の論著をも的確に引用しているので、以下の解説においても適宜参照した。ただし、田仲氏のばあいは、あくまでも香港の事例が中心なので、ここでは上述したように呂匹氏に沿って海陸豊劇をなるべく内側からみていきたい。

 正字戯  海陸豊劇の源流についての明確な文献記載はない。そこで推定の説となるが、呂匹によると、正字戯(原名正音戯)は南戯の伝統を受け継ぐ弋陽腔に由来し、これに民間の曲調が加味されてできあがった。それは明代初期にはおこなわれていた。すなわち明代の『碣石衛志・民俗』によると、洪武年間(1368~98)に、この地にきた屯田兵たちは当地のことばも、白字戯もわからない。そうして酒や賭博に耽り、品行がたいへんよくない。それをみて、軍の総官が江西の戈陽や福建の泉州、浙江の温州などにいき、正音戯班を招いて、彼らにみさせたという。
 正字戯には武戯と文戯の別があり、総数二千ほどの劇目がある。ただし、武戯が圧倒的に多い。これは科白はあるが歌唱がないもの、すなわち提綱戯である。一方、文戯は清代の乾隆(1736-95)、嘉慶(1796-1820)年間に起こったもので、その数は170余りである。
 正字戯は中原地方の官話を用いて演じる。主要な曲調には正音曲(大板曲ともいう。戈陽腔、青洋腔、四平腔の複合)、崑腔があり、そのほかに少量の皮黄、小調がある。生、旦など役柄の定型は12ある(「十二个行当」、行当とは役柄)。ちなみに白字戯は七个行当、西秦戯は十个行当である。
 正字戯は陸海豊のほか広東東部、福建南部、香港、東南アジアでもみられる(以上『海陸豊戯見聞』、1-2頁参照)。

 白字戯   明代初期あるいはそれ以前に福建南部からはいってきたものと在地のことば、芸能とが融合して形成されたものである。
曲調は「曲牌聯綴体」が基本で、民歌を混ぜる。歌のあいだにアイアイということばを多用するので白字戯は俗称「啊咿噯(アイアイ)」とよばれる。ちなみに、この俗称はまったく言い得て妙である。日本人など外部の者にとって、方言はわからなくても、心情を表現する主要な場面でくり返される「アイアイアイ アイアイアー」のことばはとくに印象的で、訴えるものがある。極端な言い方をすると、劇の筋立てそのものはたいして頭に残らないが、このアイアイアーだけは何日たっても忘れられない。それほど強い響きを持っている。
 白字戯は清代中期、乾隆嘉慶年間に、正字戯から武戯を吸収した。そして、上半夜(宵の口から零時まで)にこれを演じ、後半夜(零時から夜明けまで)に方言による白字戯(文戯)を演じるようになったという。これを人びとは「半夜反」とよんだ。
 もっとも、今日、汕尾では正月の白字戯の演戯は遅くとも午前零前には終了しているので、かつての半夜反はみられない。白字戯による文戯の演目は、呂匹氏によると、1992年ごろには200余りあったとのことである。
 白字戯は潮州にもある。潮州人は海陸豊のものを「潮州白字」と区別して、「南下白字」とよんでいる(以上『海陸豊戯見聞』、13頁参照)。

 西秦戯  これは明末に江西からはいってきた西秦腔に由来し、それと民間の曲調が融合したとされる。西秦腔は広東省東部だけでなく、福建南部、台湾にも伝えられている。なお、西秦というのは地名で、かつての甘粛隴山の東(現在、陕西省隴県一帯)に位置する。ここは古代秦国の西にあたり、西秦とよばれてきた。西秦腔とはその地で起こった曲調ということになる。
 主要な曲調は正線調、西皮、二黄である。これに、さらにいくらかの崑腔、雑調が混ざる。このうち中心となるのは正線調で、そのことばは故地のものを踏襲している。
 演目は数多く伝わる。武戯が700余りで、文戯も400余りという。
 西秦戯は清代末期には大きなチャルメラ、太鼓、銅鑼、鐃鈸などによる迫力ある演出により人びとに好まれた(以上『海陸豊戯見聞』、4-7頁参照)。しかし、現在は、先にも述べた通り、その劇団は専業、業余、併せてふたつしかない。劇団数から判断しても、あまり盛んとはいえない。人びとに尋ねると、言語の壁によるところが多いようである。
 とはいえ、これがすぐにも途絶えてしまうかというと、おそらくそこまではいかないだろう。前述したように「海豊県西秦戯劇団」のばあい、呂維平団長は41歳であり、団員も比較的若い。団長によると、一年に220台の公演をしているという。けっして十分な収入ではないが、地方政府の支援もあり、団員の育成と広報に工夫をこらせば、その存続は十分可能であろう。
 西秦戯に限らず、海陸豊の劇団の状況については、なかなか厳しいものがあると聞いた。そこで、これについて以下にもう少し述べておきたい。

 劇団の活動  呂匹氏によると、海陸豊の劇団は一年のうち、次のような機会に招かれて演戯をする。すなわち12の類型があげられる。あらかじめいうと、このうち、旧正月のあいだに1、2、3、5の類型の演戯がみられることになる。

 1. 落馬戯  戯班はこれを開棚戯という。伝承によると、神がみは12月24日に馬に乗って天にいき、玉皇にまみえる。そして正月5日に大地にもどってくるという。人びとは4日のうちから芸能をもって迎える。そこでこれを落馬戯という。
 2. 開灯戯  開灯とは元宵を祝うことである。汕尾だけでなく、海陸豊の各地で開灯戯がおこなわれる。およそ正月8日あるいは9日から20日までのあいだにおこなう。とくに15日前後が最も盛んである。
 3. 神誕戯  俗に神生戯という。海陸豊一帯では一年中、神の誕生日があり、芸能が演じられている。すなわち1月8日(真君大帝)、2月2日(伯公)、2月14日(王爺)、2月19日(太陽公)、3月3日(玄天大帝)、3月15日(呉爺)、4月13・14日(媽)、5月4日(三介爺)、5月5日(雷爺)、5月13日(関帝君)、6月19日(観音娘)、6月29日(譚公爺)、7月22日(招財爺)、7月24日(城隍爺)、8月15日(太陰娘)、9月15日(王爺)、10月10日(水仙爺)、11月6日(玉皇大帝)、12月24日(司命帝君)などである。
 これらの誕生日前後に奉納芸能が演じられる。なお、上記のうちに3月23日、媽祖の誕生日が漏れているが、これは当然芸能が伴う。たとえば鳳山媽祖廟では3月22日から4月24日まで約一ヶ月間毎日芸能を奉納する(前引、周玉蓉博士論文)。
 4. 酬神戯  旧暦10月から11月は一年中でもっとも頻繁に各地で演劇が奉納される。俗に還神戯、解紙戯、あるいは収冬戯ともいう。
 5. 節戯  節日の芸能をいう。すなわち正月15日、4月8日、5月5日、7月15日、8月15日、9月9日、10月1日(十月朝)などの芸能である。
 6. 醮戯  上元、中元、下元のときの儀礼に際しておこなわれる。これは安龍、建醮、打醮、祭孤、祭幽などの儀礼とともにおこなう。この類いの芸能は下元が基本で、中元がこれに次ぎ、上元の上演は比較的少ない。
 7. 入火戯  祠堂、廟、庵、寺などの新築や改築の記念におこなうものである。
 8. 頭標戯  龍船戯ともいう。5月の船漕ぎにおいて勝った地域、社は必ず日を選んで芸能を催さなければならないという。
 9. 閑時戯  これは、年の実りが順調で、しかも農作業が一段落したころ、有志がよびかけて催す芸能である。
 10. 図春戯  春、芸能の需要が少ないころ、劇団としては生活のために安い費用で芸能を提供する。山寄りの地域では、往々にして博徒が招待主となるので、賭戯ともいう。
 11. 生日戯  数は多くはないが、富裕な家では老人の誕生日に芸能を催す。
 12. 死人戯  これは、その数はたいへん少ないが、富裕な家の老人が百歳にして亡くなったときに家族が催すものである。

 以上は呂匹『海陸豊戯見聞』の「従粤東民情風俗看海陸豊戯劇活動与生存」中の文章による(62-64頁参照)。実に多くの場で芸能が上演されていることがわかる。
 劇団の現況について  今日、汕尾でみた限り、西秦戯はともかく、白字戯、正字戯は相当数多く演じられている。外からみた印象では、これらの芸能の伝承にそれほど問題はなさそうにもみえる。
 ところが、呂匹は2004年に「魂兮帰来-紀年陳宝寿先生」(『広東芸術』第2期)という文を書いて、正字戯の先行きを案じている。これによると、正字戯の劇団は1980年代以降、漸減し、1990年には広東文芸界の著名な人士が連名で海陸豊正字戯が消滅の危機にあることを省政府に訴えたとのことである。
 また、呂匹は2006年、「海陸豊基層戯劇団体生存現状調査」(『中国戯劇』第8期、4-6頁)において、具体的な数を挙げて、次のようなことを述べている。これは前引、田仲一成氏『中国地方戯曲研究』のなかでも引用されている(ただし、その引用原文は2003年のもの)。興味深いので引用しておく。
 すなわち、海陸豊には現今、157の劇団がある。そのうち正式な許可証を持つのは77、また無認可の劇団中、明らかに活動しているのは11ある。需要に較べて劇団数が多く、いうならば「僧多粥少」あるいは「乞食相争巷」 の様相を呈している。十分な研鑽を経ないので、当然、質は低下している。
 157の劇団のうち、現在(2003年)、正字戯は26、西秦戯は3(野村注、2008年現在は2)、白字戯は123、潮劇2、皮影戯、雑技、曲芸が各1である。このうち政府の資金で作られた正字戯、西秦戯、白字戯劇団は各1で、その他はすべて民営である。
 民営の劇団はなくてはならない存在である。多すぎるのは問題だとしても、政府がまったく支援をしない現況はやはり考え直さなければならない。そう述べて、呂匹氏は現状に危機感を抱き、10項目の建議を提示した。その建議のうちには、無形文化財への再認識、国営劇団の体質改善、市政府による後継者育成など当然のことが述べられている。さらに第6項目には具体的に数次を挙げて資金援助を促している。そこでは山東省のある県ではふたつの劇団に2005年、120万元ずつ援助をしたのに、汕尾では平均して10万元だという。
 さらに呂匹氏は、汕尾に海陸豊劇の研究機構を設けて、研鑽、資料収集することを促している。現状ではまったく手がつけられていないということである。また中国には300種類を越える劇があるが、正字戯、西秦戯、白字戯のような「几百年」(数百年)もの歴史がある劇は民族文化の宝なのだから必ず保護しなければならないという。
 多少の誇張はあるようだが、海陸豊劇の貴重なことはいうまでもなく、いちいちがもっもな指摘である。呂匹氏は1930年生まれで、ほとんど一生涯、海陸豊の演劇に携わってきた。その目からみると、汕尾市の157という劇団数は必ずしも満足のいくものでない。とくに膨張した数に押されて、本格的な正字戯、西秦戯、白字戯の伝承がおろそかにされているのは危機的な状況だという。また、経済的な支援の必要性も納得がいく。とくに今日の汕尾では国営の劇団といえども、その劇団員の生活は苦しいとのことである(海豊西秦戯劇団長呂維平氏よりの聞書)。
 過当競争のなかで、伝統の奉納芸能が生き残るというのは至難の業であろう。これは中国に限ったことではないが。
 観客について  ただし、芸能のばあいは、享受者の側からの視点も必要である。汕尾市の城区でみた限りでいえば、素性のいい芝居であるかどうかはともかく、それを支える観客はなお、かなりの数、健在である。しかも、それは地域と密着した廟の前でおこなわれている。演劇としての水準を高めることはもちろんたいせつなことだが、今日なお維持されている汕尾の祭祀と芸能の独特なあり方に目を向ける必要もある。端的にいって、この地域の人びとの芸能への熱意、篤実な思いを尊重すること、その維持の方途を考えることもまたたいせつだといえる。たとえば、汕尾市は経費の援助はともかく、各地の廟と奉納芸能に関してもう少し奉仕する態度が必要であろう。2008年の1月、前述した漁村の仮設舞台は突如解体されてしまった。理由は汕尾市の20周年記念行事の準備ということである。この地では各地域の祭祀芸能の地位は公的にはひどく低い。そうしたことが実感された。
 市当局は認識を改める必要がある。そして適切な情報を外部に出すべきである。現状では、旧正月のあいだ、どこの廟で何がおこなわれているのか、誰も知らないのである。
 
 3 まとめ-祭祀と芸能の面からみた汕尾の旧正月

 わたしは旧暦の12月27日から1月18
日の朝まで汕尾市の城区に滞在した。やや長期の滞在で、かなり濃密な正月気分を味わうことができた。しかも、上述したように、たてつづけに数多くの熱気に満ちた奉納芸能をみることができた。その具体的な状況、個々の芸能や劇団に関連する意見などはすでに記した。そこで、以下はもう少し包括的に、「祭祀と芸能の面からみた汕尾の旧正月」という視点からまとめておきたい。いろいろ特徴的なことはあるが、ここでは以下の三点を取り上げておく。

 1. 外からのサチ-華僑、海外同胞の力

 汕尾の正月を活気づかせているのは地域住民の横のつながり、敬神の熱意で、これが基本にある。ただし、それに劣らず重要なのは外からもたらされるサチ、つまり華僑、海外同胞の物的、精神的支援である。
 各地の廟で、一日の芸能を一人で寄付する人がいる。3千元から4千元というのはかなりの高額である。その多くは香港や澳門などで成功した同胞である。正月のときだけ里帰りする人もいるし、資金だけを送ってくるばあいもある。この人たちは、陰に陽に故地の伝統を尊重し、できれば、みずからも正月行事に参与しようとする。
 この際、舞台で毎日おこなわれる「仙姫送子」は絶妙の習俗といえる。天あるいは神仙の世界と役者、住民代表とが子供(人形)を媒介に結びつく。人界から寄付というかたちの奉仕があると、天からは子供、禄が下される。この構図を確実に進行させるのは、現に外地にあって「禄」を授かった同胞なのである。これほど生き生きとしたお手本はない。
 汕尾の華僑、海外同胞について、その実数は絶えず流動していて確かではないが、海豊県のばあいの次のような概括の文が参考となるだろう。

 海豊県は広東の僑郷のひとつである。…今日、世界20余りの国と地区に住む海豊所属の華僑、華人および香港・澳門・台湾同胞はおよそ53.7万人。これは国内本県総人口のの60%に相当する。華僑、華人、帰胞、香港・澳門・台湾同胞およびその眷属は海豊人民の経済、社会生活において重要な位置を占めている。改革開放以来、彼らは海豊の文化教育事業の発展、経済振興の上で重要な貢献をしている。  
              (『海豊県志』上(広東人民出版社、2005年、第一章巻四)

 ちなみに、汕尾市城区の戸籍人口は48.18万人、海外華僑と香港・澳門・台湾同胞は13万人とされている。そして外国への輸出の伸び率は前年比111.4%で、汕尾市のうちでも飛び抜けている(『広東年鑑・2006』、広東年鑑社、2006年の汕尾市の項参照)。こうした状況の背後に、海外同胞との往来があることは間違いない。それは確かに汕尾の正月にサチをもたらしている。

 2. 老人、婦人、子供たちの世界

 汕尾の正月の特徴のひとつは、それが老人、婦人、子供たちの世界だということである。舞台の前の椅子はおおむね老人たちが占める。それは正月だけではなく、廟の行事ごとにみられる。鳳山媽祖などでは延べ60日にもなる。しかも、わざわざ遠くの廟にでかけていかなくても、長年、親しんだ神の居所(各地域ごとの廟)で享受できる。このことは老人たちにとって、この上もない慰安になる。
 さらにここに女性たちが参与する。もちろん、中年の女性は家事もあり、何かと忙しい。それゆえ老人を除くと、舞台前に座って長時間、観劇する女性の数はあまり多くはない。従って、一見すると、中年以下の女性はあまり参与していないかのようである。しかし、廟内の仕事はいろいろある。たとえば、媽祖廟の年越しの儀礼、開灯、花公花婆迎え、採花枝などでは中年以下の女性たちがいなくては成り立たない。彼女らは隣同士のよしみもあり、皆、好んで奉仕をしている。なかには義務感に促されたばあいもあるのだろうが、その活動は理事会が命じたからというよりは自発的なものとみられる。
 つまり、動員ではないため、個々の参加者の表情が生き生きとしている。そのことは採花枝の行事のときに一層明らかでる。安美媽祖廟のはあい、お守りの札をもらう人はもちろんのこと、これを渡す女性たちも皆、喜ばしい表情をしていた。
 一方、また汕尾ではどこの廟にいっても子供が大勢いて、舞台をにぎわしている。なかには舞台前にいって立ち見する子供もいる。大人たちに叱られてもなかなか移動しない。その好奇心の強さはかつてわたしたちの世界にはどこにでもあったものだが、今はあまりみられなくなった。ここでは一人っ子政策や電子ゲームでの遊びなどは別世界のことだ。もちろん、香港や深圳との往来は頻繁なので、携帯電話をはじめ、新時代の器機は商店にいくらでもある。従って物そのものは少なくはないのだが、環境が異なるのである。実際、二人、三人の兄弟がいる家庭はめずらしくないという。
 こうした環境であるから、花公花婆や媽祖に子を祈るのはごく自然である。それはかつての女性たちの場が維持されていることを意味する。

 3. 芸能にみられる女性の力

 汕尾の芸能は神への奉納ということが第一ではあるが、その演目の選定や脚色にはやはり、観客の意向が反映されているだろう。こうした観点から改めて見直すと、女性の力が至る所で表現されていることがわかる。
 そもそも「招親」を主題とした演目が少なくない。これは明らかに古代の習慣の名残であろう。明清以降の現実の社会では嫁入り、しかも嫁ぎ先で貞女であることが奨励された。そうした現実のなかで、婿を取ったり、婿入りしたりする芝居が多いということは女性たちの潜在的な意向を示すものといえよう。
 これと関連して、佘太君、穆桂英、八宝のような女杰が現れることも注目される。中国の演劇史においては明末以降、この種の女杰が輩出することが知られている(王永恩「試論明末清初戯曲中的女杰形象」『中国戯曲学院学報』第27巻第4期、2006年)。この原因については経済活動の進展、市民意識の高揚などももちろん作用しているだろう。しかし、おそらく、それは時代の変化により突然引き起こされたものではなく、元来、説話などで民俗世界に潜在していたものが形象化されたというべきなのであろう。
 ちなみに、中国では、古代(戦国時代)から女侠、女杰、巾幗英雄(巾幗は女の頭巾、転じて女性)の類いは少なくなかった。女の英雄としては南北朝の「木蘭詩」における木蘭が有名であるが、それだけではない。唐建国の祖李淵には平陽公主がいた。この女性は父王のために「娘子軍」を組織して父の反隋の戦いを支援した(『旧唐書・平陽公主伝』、前引王永恩論文参照)。女性が従軍して活躍する話の系譜は古くから存在していたのである。これはおそらく架空のことではなく、実際に女性の軍隊というものがあったのだろう。
 以上のことに加えて、李三娘や秦香蓮、あるいは李后の姿には息子のために苦難する母親像がみられる。これは単に苦難を経るだけでなく、意志堅固な女人の鏡のような存在である。女杰になるのは夢物語としても、たとえば李三娘のように十数年、夫と息子をおもって石臼を碾くことは誰でもできるし、多かれ少なかれ現にやっていることなのである。
 こうしたことを神の前の芝居を通して知るということは、暗黙のうちに生き方を学んでいるということになる。汕尾に限らず、前近代、いや、つい最近までも中国の郷村の女性たちは学校教育をあまり受けていない。彼女たちの教育の場は実にこうした奉納芸能の舞台にあったといえるだろう。
 しかも、こうした機会は正月だけでなく、年に数回あった。その影響はたいへん大きかったといえるだろう。

 以上、今回の滞在を通してとくに印象に残った点をとりあえず三点にしぼってまとめた。このほかにもなお伝えるべきことはあるとおもわれるが、次の機会にゆずることにする。

 付記  今回の滞在では、現地の研究者黄漢忠氏、各廟の理事会の役員諸氏、そして東北大学大学院博士課程の稲澤努氏にたいへんお世話になりました。とくに稲沢氏は、これまでにすでに汕尾の漁村に住み込み、1年以上にわたり人びとと生活をともにしています。稲澤氏の正確な情報があったため、わたしは城区各地の廟を能率よく回ることができました。廟の理事会への挨拶を支障なくすまし、最後まで自由に観劇することができた一因も、ここにあるだろうとおもっています。併せて、見物席の最前列で写真機を持って観劇することを許してくれた汕尾の人びとに感謝する次第です。 
                             (2008年3月末日)

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