波照間島のムシャーマ-2005年、ホトケをかけての豊年祭


 中庭での演目  一方、行列が東組、前村、西組とつづいておこなわれたあと、公民館脇の中庭で勇壮な演戯とニンブチャー(念仏)がある。その次第は次のとおりである。このうち太鼓と棒は三つの組がくり返しやる。

 1.太鼓 2.棒 3.ニンブチャー(以上午前)
  
 豊年祈願後に供養  ところで、太鼓、棒までは豊年祈願の行事である。一方、ニンブチャー以後はソーリン(精霊祭)の行事だといわれる。これに関しては、『波照間島のムシャーマ』に現地の伝承が記されている。すなわち、ニンブチャーは部落内の無縁仏を部落民共同で慰霊し、供養するための踊りとされている*4。

  *4 前引、ムシャーマ編集委員会『波照間島のムシャーマ』、95頁。

 ニンブチャーはムシャーマの中心  以前はムシャーマに参加した人全員がニンブチャーに加わるのが掟であった。しかし、次第に「ムシャーマの中心となる」はずのニンブチャーが衰退してきて、役員と棒の担い手だけでやるようになったという*5。このことはたいへん興味深い。
 *5 同上、95頁。

 1年の豊作を指し示す弥勒とその供たちの行列、棒を用いての災厄除け、そして祖霊を含めた死者霊の慰撫、供養、これらが済んでのちに、新年の予祝を込めた芸能がなされる。こうした一連の祭祀と芸能は東アジアでは一般的にみられる。蜡祭(豊作感謝祭)から儺、年初の豊年予祝の芸能へという展開がムシャーマにおいても確かにみられる。
 なおニンブチャーの詞章は次のとおり。

 

 △親(うや)ぬ御恩(うぐん)(無蔵念仏)
 
  南無阿弥陀仏は 弥陀仏(めだぶとき)
  親(うや)ぬ御恩(うぐん)は 深きむぬ
   父御(ぐ)ぬ御恩(うぐん)は 山高さ
   母御(ぱぱぐ)ぬ御恩(うぐん)は 海高さ
   山ぬ高さや 察知(さばが)りん   [はかり知られる 野村注]
   海ぬ深さや 察知(さばが)るな   [はかり知られぬ 野村注]
   昼(ぴいる)やよ父御ぬ (ぴさ)が上(うい)
   扇(あうぎ)ぬ風(かじい)ん あうがさり  [あおられて]
   涼(すゆ)ぎぬ風にん 涼がさり      [涼しくされて]
   夜(ゆる)やよ母御ぬ 懐(ふちくる)に
  十重(むむや)ら 二十重(ぱたや)ら 衣装(んぞ)が内
   濡りたる片身(かたど)や 親(うや)が方
   乾ちよる 片身や 子(ふあ)が方
   全身(むるど) 濡りば 胸(んに)が上
   くり程(ふど) 父御に 思(うむ)わりてぃ
   あり程 母御に 育(すだ)てぃらり
  我(ば)んがよー 年数(としゆ)みば 十二十歳(とうはたち)なり
  十二十歳なるまでぃん 御恩知(うぐんしい)らぬ
  物(むぬ)ぬあさまし 事(くと)どやる            (普通はここまで歌う)
    後略
       (ムシャーマ編集委員会『波照間島のムシャーマ』、96-97頁)

映像 (2分25秒)  ニンブチャー、狂言

 
映像 (2分56秒)  獅子ん棒」(西組)と獅子舞

映像 (2分7秒)   ミチサネー(帰りの行列)西組、弥勒ほか

 舞台での芸能と獅子のあそび  さて、昼食後はまず、三つの組による舞台での芸能(ブドリ)がある。そして、そのあとで、中庭での獅子棒と獅子舞がある。これらが終わると、各組への帰りの行列がおこなわれる。
 舞台での芸能はその年ごとに多少は異なる。2006年は次の15演目がおこなわれた。
  
 1.カギヤデ風 2.一番コンギ(狂言) 3.五月雨節(ヤドゥアミブシ) 4.ウリズンノ歌 5.夜雨節(ユアミブシ) 6.月夜浜節(ツキヤハマブシ) 7.桃里節(トゥザトブシ) 8.高那節 9.安座里屋節(アザトヤブシ) 10.コンギ 11.鶴亀節 12.祖平花節(シビラバナブシ) 13.世果報節(ユガフブシ) 14.赤マタ節 15.コームッサー
 
 狂言にみる豊年祈願  以上のうち、東組による「一番コンギ」などは豊年祈願のことがよく示されている。それは、兄貴分(兄方、シャマカタ)と弟分の若者四人による滑稽な掛け合いである。すべて方言なので、聞き取りは不可能であるが、台詞は決まっている。古老の浦仲浩氏に教えてもらったところによると、こんな内容である。
 まず兄貴分が口をきく。7月にはユーニゲーがあるから、それまでに荒れた畑を耕し、芋畑を整え、狂言や踊りの準備もしておこうという。そして、若者(バカムノ)をよびつけ仕事を命じる。すると、四人は、畑の開墾をやり、終えたことを告げる。ところが、兄が仔細にみると雑草がはえていて、石ころもみえる。なってはいない。もういちどやれと命じる。弟分には不満があるが、働く。
 兄たちはユーニゲーがあるので踊って帰ろうという。それをきいて、一番年下の弟分(バタサ)は兄たちがねぎらいのことばをかけてくれず、心中おもしろくない。しかし、やることはやって帰ろうとおもう。弟分と若い衆はそろって
 「きゅうぬ ふくらしやや(今日は めでたや) なうり伽羅立ちる(実りの花が 咲きさかって)」
 「ちぶてぃーる 花ぬ咲かな(つぼんでいる花が 咲いたよ)」
などと歌って退く。
 それをみた兄貴分は
 「今年播いた種はこうべが下がるほどに実り 来る年はなお一層 世果報(ゆがふ)よあれかし 世は稔れ 世果報あれかし」
というような祝辞を述べる*6。
 威張った兄、その下の弟たち、一番下の弟による、豊作予祝の狂言ということになる。こうしたかたちで東組に豊作をよびこむのだろう。
  *6 同上、112-113頁。

 獅子のあそび  そして、午後4時少し前から、舞台脇の中庭で「獅子ん棒」(西組)と獅子舞(3組)があった。そのあとはミチサネー(帰りの行列)である。一方、各組の行列を送り出したあと、役員たちは公民館前で、ユーニガイ(世願い)をし、ミルク節、ヤーラーヨー節(別れを告げる歌)を歌い、行事を終える。
 なお、獅子舞の由来については諸説がある。そのうち、、石垣島川平村に安南人が漂着したことに由来するという説、あるいは安南にいってならってきたという説があることは注目される。これとは別にただ単に川平村の海岸に獅子.頭が漂着したというのもある(前引『波照間島のムシャーマ』、73頁)。いずれにしても、海の向こうからきたということが明白に伝承されている。これは結局、神威を備えた者が外からきて村の災厄を取り除いてくれるということを表現している。

 各組の会館、また家での行事  各組にはそれぞれ会館があり、行列の帰着後、そこでまたひとしきり、棒、太鼓、獅子舞が演じられる。ところで、さらに興味深いのは、弥勒役と棒を担った家では、その担い手を迎えてニンブチャーをすることである。
 前部落のばあいに参席してみたところ、迎える家では、仏壇の前にもてなしの膳を並べ、主婦もともに念仏踊りをしていた。これは祖先に対して「子孫が棒に参加した」と報告しているのだという。これは家の単位で、祖霊とその周辺の無祀孤魂を供養していることになる。
 この日の行事について  この日の行事を振り返ると、まず、ミルクをはじめとした来訪神や祖霊の到来が演出される。ここでは豊年が祝われている。次にニンブチャーで無祀孤魂の祭儀をする。そして、そのあと、舞台の芸能(ブドリ)によって改めて、きたる年の豊年が祈願される。この芸能はやはり、あとからはいったものであろう。そうしたことは仲本信幸によってすでに述べられていた*7。ニンブチャーのあと、獅子舞で災厄を払い、祖霊に向けて一年の報告をすれば、ムシャーマは一段落したのであろう。しかし、豊年祭を彩る歌や踊りは慰霊の重要な手だてなので、これがはいってくるのは必然だったといえる。 
 
  *7 前引、本田昭正編『波照間島の歴史・伝説考-仲本信幸遺稿集』、51頁。

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